2011年10月4日

死、囲む、生。

人は生きる限り、死に取り囲まれています。
死の力が、確かに今も、わたしたちを覆っています。

先月、知人のおじいさんが亡くなりました。
先週、ある牧師の訃報が、日本の教会から届きました。
今日、おばあさんの危篤を知らされた同僚が一時帰国しました。 
明日も、死の力は変わらず、わたしたちを覆うでしょう。
これからも、愛する人や、私たち自身にも一歩また一歩と近づいてきて
最期、いよいよわたしたちを捕えるまで、死が遠くなることはないでしょう。

いや、直線的な昨日→今日→明日の時間概念を用いずに言うなら、
わたしたちは、生きながらに死ぬことだってできるのです。
たとえば、困窮のとき、わたしたちはそんな状態です。
本当に、わたしたちは、死んだように生きています。

・・
・・・ 今日は、ヘブライ聖書の詩篇116編を読みました。
・・

なぜ、この詩のヘブライ動詞は、完了形(過去から現在)も未完了形(現在から未来)も
ごちゃごちゃに出てくるのか、いちいち考えながら、読みました。

第一には、古代イスラエルのこの詩人も、生きながらに死んでいたということかもしれません。
そんなとき、過去も、未来も陰府(よみ)のように真っ暗だったようです。そして、どうも、その現実は変わっていません。

でも、第二に、どうも、その現実は変わっていないのに、この詩の全体としては、死を破る生があるという喜びが、かの死を取り囲んでいるようでもあります。
なんだろう、現実は変わらないのに、目の前がぱっと明るく、実存は大きく転換するようです。
なんだろう、この目から鱗の転換は。

わたしは、読みながら、いつの間にか、こう考えるようになっていました。
死んだような、死に取り囲まれた現状の中、わたしも、それを突き破る生にすがりたい。
昨日も今日も明日も、いっぺんに明るくなるような、死を突き抜けた生だってありうると言いたい。

現実は何もかわらないことはそう、本当です。
友人たちの悲しみに、まだかけてあげる言葉もまだちゃんと見つからないし、
みんなも、わたしも、時が満ちれば死ぬことに変わりはない。

でも、現実は何も変わらないけれど、死を取り囲むような生が、「いきいき」としうることも、
わたしたちの実際だと信じた人がいた。そこに連なりたいと思うのです。
たとえ明日死んでも、生きる限り死を突き破る今があることにすがり、たってみようと思います。

おやすみなさい。
死人を生き返らせる旧くて新しい詩の余韻の中で、夜を過ごして朝を迎えます。

12 件のコメント:

Koichi Tamura さんのコメント...

人の世は天国と地獄の狭間なり。
生きるは苦しいが、死ぬは愚かの極みなり。

私の命は生きるために流れている。

schu-hey さんのコメント...

@Koichi Tamura san

生きたコメントどうもありがとう。

Koichi Tamura さんのコメント...

極道と新興宗教とかけまして、
長い長いトンネルと説く。

その心は‥

どちらも抜けるのが大変でしょう((笑)

schu-hey さんのコメント...

@Koichi Tamura san

長いトンネルを抜けて気付くこととかけまして
今肩を落としている友に送りたい斎藤和義の歌と解く
その心は‥
http://www.youtube.com/watch?v=_GYjmv93vnw&feature=related

田村耕一 さんのコメント...

西南で学んだ「義」という言葉を最近、回想してます。
義とは、律や法に束縛されず、只々一心に人の為に‥
しかし、日本語ではにんべんに為と書いて、
「偽」ということなんですわ。

私には神も仏もありません、今んところは。
「実体の無い神に何が出来る?」
ちょいと暴言的ですが、ご勘弁あれ。

schu-hey さんのコメント...

友人だから、率直に反対意見言うね。

・義しいことが当たり前に(法的にも法外にも)行われる世界に自由があるんじゃないかな?日本語世界でも、その他の場所でも。

・義(ぎ)と偽(ぎ)は本来、違う音に由来する言葉で、言葉遊びの場以外では、繋がらないと思うよ。つまり、偽はもともとは「イ」と読むはずですから。また、人の為=偽という漢字の紀元についての俗説も、あまり真剣に受け止める必要はないと思う。僕は語源論専門じゃないけど、言葉の起源は丁寧に探りたいという願いをいつも持っています。

・僕も、もし神に実体が本当にないという君の想像がただしいとすれば、そんな神には何もできないと思う。

でも、神の「実体的な働きかけ」は歴史に存在すると僕は信じている。キリスト教徒なら、実体のある神の子を指さすだろうし、そうでなくとも、多くの宗教の信仰者が、人間を超えた何か大きな力に具体的に「触れる」ような思いで、それに突き動かされて歴史の少なくない部分を作り、担ってきた。そこで起きた史的出来事は、人々が信じた「神の実体」なしに生じなかったのではないだろうか。

神や仏を強引に信じろなんて、僕は言うことはできないけれど、反対に、神も仏もある人の生きた歴史を簡単に棄てないで、隔てない考え方で、君と視点を共有したいと願っています。

田村 耕一 さんのコメント...

イエス、ブッタ、ムハンマド、孔子‥
聖者と謳われる歴史上の人物は、同一の神を拝めているのだろうか?だとすれば、幾度の分派を繰り返し、血で血を洗う抗争繰り広げるのか‥理解に苦しむ。
数多存在する宗教とは、とどのつまり自己の存在再確認のようなツールになっている気がする。砕いていえばサークル??

schu-hey さんのコメント...

tamura kun, いつか、一つ一つの話題を丁寧に話したいと思うよ。とりあえず、ここでお願いしたいことを一つ。互いの言っていることへの応答という形で、言葉のキャッチボールを互いに心がけたいんだ。僕も君の書いていることを良く読んでから応答するから、君もまずは僕の書いたことについて同意・反論・質問・確認などをしてほしい。話が飛ぶと、互いを理解できずに並行線になるかもしれないからね。よろしくね!

なお、君のコメントにある聖者たちに会議をしてもらうわけにはいかないから、それぞれの教えを信じる者たちの理解について考えたい。

ユダヤ教とキリスト教に関しては、共通のヘブライ聖書をもとに「神」理解について対話できるかもしれない。イスラム教も、同じ「預言者たち」を異なる伝承においてでも知っているのだから、もしかしたら、互いの人格を信頼した話し合いが可能な場では、同じ神を信じていると言えるような場面も実は多くあるだろうと思う。

でも、実際は多くの歴史的な問題が横たわっていると思う。神についての問い、それは、歴史的な問いであって、単純な存在論に留まらないものだと思う。そこには経済もあり、政治もあり、理想もあり、感情もある。だから、実際は話し合いすらとっても難しい。

だから、真理はコーランにあるように、そもそも「書の民と論争してはならない」ということなのかもしれない。あるいは、レッシングが言うように、王さま(神)から子供たち兄弟三人が頂いた世界に一つしか継承されない(つまり二つは偽物かもしれない)「王の指輪」のどれが本物かわからないまま、それでも、自分の指輪が真実だと考えて、王の子に相応しく神と兄弟姉妹への愛を実践することで、少なくとも真実に近づく努力をして歩き続けるしかないのかもしれない(「賢者ナータン)。

僕は誰の信じる神が本物か、という問いに、信仰を持つことは良いけれど、それが他者への否定を断定することにはつながらないと思うんだ。だから、僕も宗教が理由で血で血を争うことには、政治がらみ利権がらみで単純ではないのだけれど、やはりもちろん反対です。

争いはどんな信仰を持っていても、乗り越えたいもののはずで、そのために、それぞれの文脈で深い祈りがあるはずだと思う。

一方で、分派、君が言う「サークル活動」は信じるところに生きるために、歴史的に必要だったのだとも思う。争いの種としてではなく、信仰をまもり争いを避けるために苦しみながら分かれていく「派」があったことをどう考える?いつか一致したいと夢見ながら、ただしいと思うことを互いに譲れずに離れてしまった友を思いつづけて分かれている人たちがいることについては?愛してるものどうしだって、兄弟だって喧嘩する僕たちが、他者を理解できない痛みをないもののように生きるのでなく、真剣に現実と受け止めていくのか、それが僕には問題です。

たしかに、安っぽい軽い党派主義や、宗教を巻き込む利権主義はいたるところにあって、それが世界を混乱させている。歴史の中でも宗教は、常に、人を纏める手っとり早い力だから、「神」の名のもとに、利権を楽しみたい人間が成りあがって行くことも事実だと思う。

でも、重大な問いに葛藤する信仰者たちの思いとそれとは、やはり区別する冷静さもやはり、あると思う。

さて、ブッタは一神教的な意味で神を語らなかったと思うし、孔子は神についてそもそもどれほど語ったのか僕は知らない。そもそも唯一神が問題にならない場合に、同じ神をあがめているかどうか、という問いすら成り立つかどうか、僕にははっきり分からないけれど、神についての問いが、存在論に留まらないとすれば、つまり、歴史を問う問いだとすれば、数々の具体的なあり方について、大いに対話し、共通の方向性を模索することだって、ありえるのかもしれないとは思う。

ところで僕は、日本のキリスト教徒として、身近に仏を拝む親類や友人、儒教的な家庭観において誠実な人たちと触れあって生きてきた。愛し合って生きてきたとさえいえる。緊張もあるけれど、互いを思いやることはできると知っているし、それがきっと将来の子供たちの世界を作るってことにも希みがある。互いに信じることがらが、互いを支え合うような諸宗教の交流が、身近なところから広がるように願うところ。

さてさて、耕ちゃんよ、君ともこうやって、これからさらに違いを超えた深い対話ができれば嬉しいな、と思っています。

Koichi Tamura さんのコメント...

客観的・普遍的意見ありがとう。僕は周平のように学が無い。
「無知の知」という事を知るべきだなと思った。朋友よ‥
また話飛びます(笑)
こうやって生きて、メールという形だが周平と対話できている自分が奇跡のように感じます。「死」という悪魔が、病が僕を蝕んでいるが、「今生きている」ということに感謝したい。僕は多分信仰はしないけど、「義気」のために生きていきたい。家族・友人含めて。古くて錆び付いている道かもしれんが、性に合っている。

PS そろそろ仕事始めマス☆彡

schu-hey さんのコメント...

学?学問(とくに哲学・神学)の一番の成果こそ、無知の知だと思います。だから、研究者として生きようが、そうでなかろうが、僕らの結論は全く一致しているね!

僕の最近の座右の銘は、
「正確に理解すればするほど、驚きも大きい」
というあるピアニストの言葉です。

これ、ある旧約学者の本の扉に引用されていて、本当にそのとおりだな、と思って心に刻みました(ブログ内の「母教会80周年に寄せて」にも書いたけどhttp://schu-hey.blogspot.com/2011/11/blog-post.html)。へぇ、こんなこと知らなかった、ていう無知の知には、驚きがいつも伴っていて、それが、何かをさらに正確に知りたい、という思いを生んだり、人ともっと深く接したいという求めを生んだり、そうして新たな無知の知を求めて、人との対話を求めて、同時に生きる希望になるのかな、と思います。知れば知るほどわからなくなるし、知らないことがわかるけれど、それだからこそ、人生は面白いと僕は思う。

たとえば、このことは、心身の病や痛ましい境遇に苦しんでいる人とこそ共有したい。だって、自分の知と判断の範囲で、「終わり」だとか「絶望」だとか、決めるのは早すぎるってこともあるかもしれないと分かるし、「こんな始まりもあったの?」って嬉しい驚きが待っているかもしれないと思えるから。

死という「悪魔」?それはとっても宗教的な言葉だけど、信仰はしないと自分では決めたつもりで、しかも考え方は浅い宗教的な考えに影響されて、現実をとらえたと考えないほがいいと思う。「義」もきっと、僕たちが想像もしないような驚く真理を含んだ言葉かもしれないし、とにかく、自分の知っている範囲の狭いただしさに固執しないほうがいいんじゃないかな。

また、自分自身についての無知の知が僕たちに必要であることを、しつこく強調しておきたいと思う。自分の性格・性分とか、自分の運命(さだめ)とか、これももっと奥深いもので、これは、自分一人では決して把握できないものだと思う。だから、人は自分を知るためにも、他者との対話を必要としている。そしてたとえば、僕なんかは、そこに、神からの視点で自分を見ることも求めているんだ。

長くなってごめん。僕も、こんな対話ができる友人が嬉しいです。

(ところで、これは、インターネットのブログで公のものだから、名前出したり、個人の境遇を具体的に書いたりすることには注意したほうがいいかもしれないね。まぁ、ほとんど読者のいないブログで、大きな心配はいらないと思って、流しているけどね)

Koichi Tamura さんのコメント...

Public StageでもNo Problemって。
男一匹生きてさえいれば、お天道様と米は付いてくる。
更に話飛びます(笑)
スイスには本当に行きたい。でも時間がねぇ。15時間のフライトに耐えて、具合いが悪くなったからすぐ帰国出来る訳でもないし。小さな脳みそで試行錯誤したら、無理だと判断しました。

「思い悩む事があれば、あの蒼天に願え!どんなに雲っていようが雲の上は晴れ渡る蒼天だ!」

schu-hey さんのコメント...

書いたことが伝わっているのか、直接の書いたことへの応答がないので、よくわからないけど、まぁ、君のことだから、きっと読んでくれているんだよね・・?ブログの性格としては、あくまでも公なので、だれが見ても流れが分かるようにやりとりしたいんです。で、あくまでもここでは、本文に書いたことへのコメントのやりとりというルールで行けたらな、と思います。友人としてのもっと自由なやりとりは、フェイスブックのメッセージ欄や、メール、そして時間をつくっての電話でしたいと思うよ。

でも、対話は本当にうれしいと思います。
これからもよろしくー!