今日、妻と一緒に、わたしの住むチューリヒ州タルヴィルからほど近い、ホルゲンという町を散歩しました。70,5メートルあるというエメラルドグリーンの尖塔から響く11時の鐘の音に呼び寄せられるように訪れたホルゲン改革派教会は、既に1210年の文献に教区教会として言及されている、歴史ある教会だそうです。現在の教会の建物の建築は、1458年に由来するより古い教会堂を建てかえる形で、1780年に始まり、二年後に完成。1782年10月27日、ゲーテの友人としても有名な神学者J・C・ラヴァター牧師による、創世記28章16-17節および詩篇122編*に基づく説教のもと、建堂式が行われたと、ホルゲン改革派教会ホームページにありました。晴れた空を背景に、塔の先には、―風見の鳥でも十字架でもなく―太陽・月・星の装飾が輝いていました。それにしても、この塔の外観、チューリヒ市のフラウミュンスター(聖母聖堂)教会に良く似ています。どうもホルゲン教会の教会禄授与権は、宗教改革前まで、かの女子修道院の聖堂に置かれていたらしく、その類似は歴史的な記憶のせいなのか、とも思いました。あるいは、18世紀のドイツ語圏スイスの教会建築に携わった建築家たちの共通のスタイル(流行?)だった、のかもしれません。
*創世記28章16-17節… ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。そして恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
ところで、理解に窮するところもなかったわけではありません。説教壇は見事な彫刻を施され、階段下には、なぜか舌を出しワッペンを携えた「チューリヒ獅子」の木像、さらにその左には、三人がけの―説教者と州ないし町の有力者たち用の?―立派な天蓋付の椅子がありました。長い退屈な説教に眠りこけているような姿の庶民的な犬の彫刻を、どこかの教会の説教壇下で見たことがありましたが、「州の教会を護る」とする勇ましい獅子の彫像には、どうも、「国(州)教会の権威」のようなもの―小さな日本の教会で育ったわたしの教会観とは相容れないもの―が目につきます…。そもそも、かつて迫害下にあって散らされた改革派亡命者たちが、「自分たちが教会を建てられるような時代になったら、こんな教会を・・・」と夢見たような「楽園の神殿」に似た会堂を、現実に建てることができた背景には、国教会としての教会の力(権力および経済力)の高まりがあると言わざるを得ません。目に見える会堂が整うときこそ、どのような内実で礼拝が行われているかという問い直しが、礼拝者一人ひとりの信仰の吟味とともに、いよいよ必要であることを感じます。
詩編122編… 主の家に行こう、と人々が行ったとき/わたしはうれしかった。/エルサレムよ、あなたの城門の中に/わたしたちの足は立っている。/エルサレム、都として建てられた町。/そこに、すべては結び合い/そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。/主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。/そこにこそ、裁きの王座が/ダビデの家の王座が据えられている。/エルサレムの平和を求めよう。/「あなたを愛する人々に平安があるように。/あなたの城壁のうちに平和があるように。/あなたの城郭のうちに平安があるように。」/わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。/「あなたのうちに平和があるように。」/わたしは願おう/わたしたちの神、主の家のために。/「あなたに幸いがあるように。」
以前訪れたときには、鍵の閉められる18時を過ぎていたので残念でしたが、今日は北の扉が開いていました。喜んで中に入ると、フラウミュンスター教会―説教壇や聖餐卓に比べ圧倒的にシャガールの窓が一際目立つ会堂―とは、印象が違いました。かつて有名な教会建築家だったグルーベンマン家に学んだというヤコブ・ハルティナーが建てたこの教会は、師による近郊のヴェーデンスヴィル改革派教会(1763年)の会堂スタイルを踏襲したようで、わたしには(ロココ調の白く美しい天井以外)、独特にすぐれて「改革派教会的」に見えました。
まず目に飛び込んできたのは、会堂の中心―すなわち、会堂を上から平面に見た場合の基本構造である並んだ二つの円が交わる点―に、会衆席に取り囲まれるように置かれた洗礼盤でした。マタイによる福音書28章*の金文字で飾られた洗礼盤は、木板の蓋で覆われ、「開かれた聖書」の置き台ともなっています**。同時に、この洗礼盤は、礼拝時には、聖餐卓としても用いられるのでしょう。洗礼+聖餐のサクラメント(聖礼典)が、「教会の会衆の場」、「空間の真ん中にある」ことは、エムデンのA.ラウハウスという先生によれば、聖餐教会を説教教会と敢えて区別したオランダやドイツ・東フリースラントを除く、多くの改革教会の古い伝統です***。しかも、会衆同志の顔が見える長椅子の位置関係からは、礼拝者の交わりが神学上大事にされているらしいと、うかがえます。北の扉側から洗礼盤を結んだ線を延長すると、南(正確には南東)の二階部分に、4798本ものパイプをもつオルガンが天に向かい聳えています(1961年に新しくされたものだそうです)。スイス宗教改革第一世代の指導者ウルリヒ・ツヴィングリは、音楽の魅力が会衆を言葉への集中から逸らしてしまうとして、礼拝から楽器を取り去りました。しかし、その後の世代には、会衆同志が一緒に、「天の神殿」の天使と声を合わせて歌う神讃美の重要性が、ずっと詩篇歌を歌ってきた他州同様チューリヒ州にも取り戻され、生きています。
* マタイによる福音書28:19…「父、子、霊の御名によって洗礼を授けなさい」
** モラヴィア兄弟団による『ローズンゲン2014』の年間聖句でもある詩編73編が開かれていました。詩編73:28…わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く。/わたしは御業をことごとく伝えよう。
*** 『カルヴァンと旧約聖書―カルヴァンはユダヤ人か』(カルヴァン、改革派神学研究所編、教文館、2013年)内の講演録(171-196頁)参照
では、例えばツヴィングリが、聖障(聖堂内陣と身廊の間の区切り)の上に説教壇を置くなどして明示した「言葉(説教)」の位置づけは、この教会堂では、どのように見える形とされているでしょうか。≪北―南≫の通路と交差して十字をなす≪西―東≫の線に身を置くと、その強調点もまた、一定程度保たれていることがわかります。そこでは、天蓋付説教壇もやはり、会衆席に三方から囲まれるような位置の、東壁際にありました。つまり、たとえばジュネーヴの宗教改革者ジャン・カルヴァンが大事なこととして主張したように、中央に置かれた洗礼+聖餐の聖礼典に結びついて、御言の説教もある、ということです。集められた礼拝者の視点が、終始説教者だけに集中するような、いわば「講義型」の位置付けでもなければ、儀式的な所作をただ外から眺めているような、いわば「劇場型」の位置付けでもありません―確かに、段々になった大きな二階席からも含め1250席すべてから中央に視線が集められる劇場・音楽ホールのような機能もこの会堂にはあって、現在実際によく活用されてはいるようですが…それにしても―、会衆は、説教者と目を合わせながら集中して聖書朗読と御言の説きあかしを聴き、しかも互いに顔と顔を合わせてその交わりの中、見えるサクラメントに共に与り声を合わせて祈り歌うことができます。牧師も信徒も共にあって(万人祭司!)、教会共同体がキリストの体であることをよく受け止めることができる、良い会堂の形だと、わたしは感じました。
ところで、理解に窮するところもなかったわけではありません。説教壇は見事な彫刻を施され、階段下には、なぜか舌を出しワッペンを携えた「チューリヒ獅子」の木像、さらにその左には、三人がけの―説教者と州ないし町の有力者たち用の?―立派な天蓋付の椅子がありました。長い退屈な説教に眠りこけているような姿の庶民的な犬の彫刻を、どこかの教会の説教壇下で見たことがありましたが、「州の教会を護る」とする勇ましい獅子の彫像には、どうも、「国(州)教会の権威」のようなもの―小さな日本の教会で育ったわたしの教会観とは相容れないもの―が目につきます…。そもそも、かつて迫害下にあって散らされた改革派亡命者たちが、「自分たちが教会を建てられるような時代になったら、こんな教会を・・・」と夢見たような「楽園の神殿」に似た会堂を、現実に建てることができた背景には、国教会としての教会の力(権力および経済力)の高まりがあると言わざるを得ません。目に見える会堂が整うときこそ、どのような内実で礼拝が行われているかという問い直しが、礼拝者一人ひとりの信仰の吟味とともに、いよいよ必要であることを感じます。
さて、さらによく見ると、説教壇には16世紀の三人の宗教改革者たちの顔が彫られています。左はジュネーヴのカルヴァン、右はバーゼルのエコランパディウス、そして真ん中はチューリヒのツヴィングリです。これは、どのように受け留め止めるべきでしょうか。信仰の偉大な先達を記念し、彼らが大事にした礼拝の意味をその面影から思い起こすことには確かに良い一面があるのかもしれません。しかし、なにも、説教中にそれを目に見える形で示さなくてもよいのでは、と批判的な思いを持たざるをえない、というのが正直な思いです。これらの顔が神の御言を聴こうと集まった礼拝者の視界にちらつくとすれば、それは改革者も望まないことなのではないかと、考えたのです。
もうひとつ、説教壇の両脇には、旧新約聖書からそれぞれ主題を取った壁絵が大きな位置を占めています。イタリア語圏ティチーノ州出身の芸術家アントニオ・B・カッターネオが、1874年に描いたものです。実に、「聖画像破壊」の宗教改革後、初めてスイス改革派教会の礼拝堂に持ち込まれたフレスコ画となったものです。モーセが十戒の板を民に掲げる左の絵と、イエスが山上で弟子や群集を前に説教する右の絵。その対応関係だけで、旧・新約聖書の関係、特に、第二のモーセと してのイエスによる律法の成就という関係についての聖書の教えを表す、神学的に興味深い表現であり、芸術作品として、美しいものだとも思います。こういった、礼拝堂における芸術の意味をどう評価するかは、現在の改革派教会内でも、意見のわかれるところだと思います。少なくとも、今、改めて、わたしたちの時代の文脈で、礼拝における芸術の可能性について、考えておくことは、必要なことだと感じます。
最後に、この記事を書くために調べものをしている中で、東北学院の佐藤司郎という先生の文章*から知ったことをご紹介して、終わりとしたいと思います。それは、第二次世界大戦中の告白教会の運動と戦後の影響力によって、しばしば前世紀最大の神学者と言われるカール・バルトが、自身として大戦勃発後最初となる説教を語ったのが、このホルゲンの教会堂だったということです。説教箇所はエフェソの信徒への手紙3章後半**。ひとつの礼拝の場には、今・ここに、歴史の声が折り重なっていることを改めて教えられます。今なおわたしたちの目に訴え、耳に語りかける幾重もの歴史のメッセージを聞きながら、今の時代に、それぞれ立てられる地に、どのような礼拝が必要か、考えて続けていきたいと思わされました。以下、バルトの「時の言葉」の引用***です。
「教会は神から贈られるものをいただくことによって、教会のそのすべての肢々において、まさに今日われわれに必要、かつ救いとなるもの、すなわち、力、愛、知識を受けとります。教会は神から贈られるものをいただくことによって、世に勝つ、いやすでに世に勝った信仰を生きるのです。教会は今日の世界においても希望の場所です。教会自身が世界の生ける希望です。・・・神よ、イエス・キリストにある教会がわれわれの時代にも存在し、成長し、目覚め、目を覚ましていることができるようにしてください。教会は、黄泉の門もこれに打ち勝つことができないという約束を持っているのですから・・・。アーメン。」
** エフェソの信徒への手紙3:14-21… こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
*** 佐藤司郎「第二次世界大戦勃発と告白教会の説教―冷静な現状認識と聖書への集中」(『説教黙想アレテイア特別増刊号 危機に聞くみ言葉』、2011年、62-67頁)に引用された蓮見和夫訳の抜粋。バルトの当時の戦争勃発に関する見解があらわれている箇所は、本記事の主題を超えるので、この引用には載せていない。この主題については、上記ホームページにてダウンロード可能な以下の論文も参照。佐藤司郎、「世界教会とカール・バルト―1938~45年のエキュメニカルな公開書簡を通して―」、『ヨーロピアン・グローバリゼーションと諸文化の変容に関する研究』、2012年、197-209頁。