出エジプト記(2.Mose) 16 :2 ~ 30
「つぶやく共同体へ。日々の糧と安息日」 2011年9月11日 ウスター(スイスにて)
始めの奏(神の現臨と栄光)
招きの詞 詩篇/Psalm107:8-9
祈祷(罪の告白と聖霊の照明を求める祈り)
讃 美 讃美歌21-7「ほめたたえよ力強き主を」1-5
EMK83 „Loben den Herren, den mächtigen
König“ 1-5
信仰告白 使徒信条
讃美 詩篇歌138編による讃美(Genfer Psalter138、大石翻案詞) 1,2節
1.心をつくして 汝れをばほめ讃えん
御神にむかいて 汝れをばほめ歌わん
聖き主の宮に 向かいて伏し崇むる
慈愛・真実ゆえに 御名をほめ讃うる
2.まこと御名ゆえに 言の葉、大いなれ
我呼びしときに 応えたもうは汝れ
汝れこそは我に 力を加えたもう
我が魂のうちに 力を添えたもう
聖書朗読 出エジプト記/2.Mose 16:2-30
説 教 「つぶやく共同体へ。日々の糧と安息日」
Tägliches Brot und Sabbat für die murmelnde/murrende
Gemeinde
出エジプト記16章には、イスラエルの救いのその後のことが書かれています。救いの後にあったもの、それは、楽しい約束の地の生活ではなく、試みでした。16章は試練に囲まれています。わたしたちは何をもって試みの日常を生きるのか。それが本日の説教の主題です。また、困窮の日に一際高まるのは人のつぶやきですが、これも注目すべきテーマです。
救いの日、男女こぞっての感謝と讃美がありました。15章の始めによれば、葦の海の奇跡を目の当たりにしたモーセの民は「海の歌」を歌いました。「主に向かって歌え、主は大いなる威光を表された!」(15:1)15章の終わりによれば、モーセの姉ミリアムらは同じ句のリフレインで音頭をとり、タンバリンを手に踊りました。それはそれは喜び極まったものがあったのです。
しかし、三日たち、一カ月たち、水・食糧が不足して荒野の困難が見え始めると、たちまち彼らの口から歌は消え、かわりに愚痴が溢れます。15章で神の救いの力と理解された「主の手」という表現が、16章3節では、不平の文脈で用いられます。餓死するより「主の手にかかり死んだ方がましだった」と彼らは言います。たしかに、苦しくて死にたいと叫ぶときが人にはあることを否定はできません。きっと苦しくて出た主への叫びなら、神は耳を傾け、大丈夫だよと答えてくださるでしょう。しかし、現実が苦しいからといって、生かされた命を棄てたいという言葉自体を神が喜ばれるでしょうか。順境には感謝が溢れたが、逆境には喜びが小さくなりました。いかにも人間らしく寂しい姿ではありませんか!なんと心は移ろいやすく、人は弱いものか!昨日はある人に感謝しても、今日疑いを持ったら、明日は彼を罵っているかもしれない、そんな不安定さ。信仰者も例外ではありません。16章には「共同体全体」などという言葉が強調されます。人間的な弱さにおいて、信仰の群のうち誰も例外でなかったということです。
キリスト教会の讃美はどうでしょう?わたしたちも、およそこの民と変らないと告白せざるをえません。今わたしたちは礼拝をしています。神を信じ、一緒に祈り、救いと約束の国の喜びを味わい感謝し歌います。でももしや、一カ月後の今日、あなたは家にこもり苦難の中つぶやいているかもしれない。いや、三日後には既に、何かの不満を家族や友や牧師にぶつけているかもしれない。いやいや今夜にはもう、明日の労苦に虚ろな溜息を洩らしているかもしれない。この弱さが、礼拝をわたしたちが毎週必要とする理由の一つだと言えましょう。人は弱く俯きやすいので、いつも天に心を向けなおし、頭をあげてもう一度、立たせてもらわなければなりません。
ああ、出エジプト記は古代の文献なのに、こんなにも率直に、現在の私たち信仰者の生の矛盾を暴いてしまうではありませんか。16章と前後に「つぶやき」という語が何度出てくるか、数えてみてください。16章1から12節まででも6回。多い!それでも全てではない。同じく、日常わたしたちがどれほどつぶやいているか数えられますか?自覚しているより多いのでは?あえて申します、キリストに救われたわたしたちも例外でなく、いわば「つぶやく共同体」です。
マタイによれば、イエスは聖書をよく知る者らに言われました。「蝮の子らよ、・・・人の口からは心に溢れていることが出てくるのだ・・・言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」(12:33)。つぶやくとき、神を相手に堂々と語る人はほとんどおりません。それが祈りとつぶやきの相違点です。不平の場合、自分の口の中でぶつぶつ言うか、身近な家族や反論しない友人に向けて語る場合が多いでしょう。しかしモーセもイエスもおっしゃるとおり、人はどうあれ神は聞いておられます。イエスは権威をもって御語りになる点旧約伝承より厳しいです。心が言葉として溢れるので、心は既に裁かれている。
16章2節によれば、民の不満も、神でなく人に向けられました。水不足の際にはモーセに、食糧不足に至っては、彼とその兄アロンにも不平が語られます。一カ月前より深刻な状況で、民の動揺はさらに大きくなっていたのです。緊急事態には、的確な言葉による導きが必要です。それで、口下手な弟より言葉巧みな兄に聞こうと思う人が増えたのかもしれません。でも本当は、口達者の言葉は、荒野の現実の中では滑稽です。荒野では、一言の信実な言葉が出来事になるだけでよいのです。でも人々の言葉が多くなり、真の言葉が聞こえなくなることもまた、試みの日の現実です。教会も同じ。つぶやきで溢れると、静かに神を求めることは忘れられてしまいます。
モーセの民は、つぶやくのでなく祈るべきでした。霊の渇きも肉の飢えも、解決は主の御手にあると信じて。実際、出エジプト記3章7節の主の言は、救いの現実となったではありませんか?
「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救いだす…見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。・・・」
今、民は、実はもう救いの現実の只中にあるのです。それを民は忘れてしまっただけなのです。死を思わせるほどの苦しみは、目を鱗のように覆います。人が死に支配されている様子が、16章3節に明らかです。彼らは言います。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。・・・あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」。主の手にかかり死んだほうがましといいますが、彼らは何を主と呼ぶのか、まったく曖昧です。彼らは、一同をエジプトの地、奴隷の家から導き出された方を主とよびません。出エジプトはモーセらのしたことだと言っています。神の手を、現実逃避のために死ぬ助けとなる都合よい力ぐらいに語っています。でも、本当は「主」というイスラエルの神の固有名詞は「生きる」という語と関係があるのです。死は神の目的ではない。むしろ、苦しい日々にこそ、今主と共に生きたいと叫ぶべきです!死でなく、生ける主に支配を求めるべきです!
だが民は言いました。「あのときは肉のたくさん入ったなべの前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。」民数記11章で、再び食糧難にあったときに彼らはこうも言いました。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。」ああ、人がつぶやくとき、なんとしばしば狭隘に、過去に留まっていることでしょう。そのとき、人は都合のよいよう過去を美化し、今をごまかしがちです。
彼らにはもっと思い出すべき体験があったはずです。主の御手に救われ、神の栄光を見たという体験、それゆえに神を讃美し、共同体全体で歌い踊ったという、礼拝に似た体験!つまり、主が共にいてくださる!という今に続くあの体験です。人には過去を自らの意思で引き出す能力がありますが、これをどう用いるかで今日や明日を見る視点は変わります。孤独な試みの日々には、何よりも「神、われらと共に(インマヌエル)」という事実を思い起すことが、いかに重要か。実は、そこに立ち返ることこそ、主の試みの目的でもあるのです。神ご自身が16章12節でおっしゃっています。試みの目的は「わたしがあなたたちの神、主であることを知る」ことだと。みなさん、今やわたしたちは、最初の問いの答えに触れています。試みの中、わたしたちは何をもって生きるのか。それは、主が共にいてくださるという信仰の認識をもって、です!
さて、民の不平に反対し、モーセとアロンは次のように問い掛けます。
「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平をのべるのか。」
これ以降、「不平」と同じように繰り返される言葉があります。「聞く」という言葉です。先のイエスの言葉に似て、この文脈では恐るべき言葉です。民は神に祈らず、モーセらにつぶやくが、それを主が聞いておられたというのです。モーセは言います。「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」(8節)と。かつて主は民が助けを求める叫びを聞いてくださいました。同じ主は、民の不平の声をも聞かれます。私たちは祈る時、主が聞かれることを前提にします。ならば不平を言うときも、同じ前提をもつべきでしょう。
「我々が何者なので、我々に不平をのべるのか。」とモーセは問います。「わたしは何者?」という問いは、実はモーセの生涯の問いでした。例えば主がモーセを召し出されたとき、彼はつとめの重さに躊躇し「わたしは何者ですか」と問いました。神の答えは、お前はモーセだとか、ヘブライ人の子にしてエジプトの王子だとか、これこれの能力のある人間だというのではなく、こうです。「わたしは必ずあなたと共にいる。」「わたしはある。わたしはあるという者だ」。つまり、神は、人に自己紹介するならあなたこう言いなさいと言われたのです。「主が共に生きている、ゆえにわたしも生きる、わたしはそういうものです」と。民は誰に不平をのべるのか。モーセか。いや、モーセと共なる主なる神こそ、この不平を聞かれています。
では、民の不平を聞かれた主は、どうなさるおつもりか。モーセが代弁します。「主は夕暮れに…肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる」(8節)。12節では同じ内容を神が直接語られます。驚くべき言葉です。人の「死にたい。かつては肉鍋をたべ、パンで満腹した」という言葉を、主は皮肉にもそのまま答えとし「生きよ。今肉を食べさせよう、パンで満腹させよう」というのです。肉やパンは死への道でなく、神と共なる生の道だ。目から鱗の大逆転です。聞いた者は、自らの愚かさに恥入ったことでしょう。
言葉は出来事となりました。夕方にはうずらが飛んで来て、宿営を覆いました。朝には露が降り、露が蒸発すると、鱗のような薄い食物が、霜のように地表を覆いました。マナと呼ばれたそれは、30節によれば白い種か、蜜入りウェファースのようなもの。民数記によれば琥珀の類で、こくあるクリームのような味。どうもパレスチナの他の植物とは違うようです。「露が降りるとマナも降る」とあります。まさに、それは天からのパンでした。それは毎日必要な分だけ与えられ、地上で肉を満たすだけでなく、夕に朝に天を仰がせました。実に民は荒れ野の四十年にわたり、霊肉を満たすこの天からのパンに生かされ、養われることになるのです。
繰り返し申し上げているように、日用の糧には、主の目的があります。パンが与えられるのは、単に肉を満腹させるためではなく、霊も満たすためです。そのために、パンを食しながら「わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」という神の言を日常の目的とすることが必要です。わたしたち福音主義の教会にとり大事な教会改革の遺産であるジュネーヴ教会信仰問答(Le Catéchisme de l’Eglise de Genève, 1542)の第一問から第三問までをご紹介しましょう。
問一「人生の主な目的は何ですか」
Welches ist das eigentliche Ziel des
menschlichen Lebens?
答え「神を知ることであります。」 Die Erkenntnis Gottes
問二「どんな理由であなたはそういうのですか」Warum nennst du sie?
答え「神はわれわれの中にあがめられるためにわれわれをつくり、
世に住まわせられたのでありますから。また、神はわれわれの生の源でありますから、
われわれの生を神の栄光に帰着させるのはまことに当然であります」
Weil er uns geschaffen, und in die Welt
gestellt hat, um in uns verherrlicht zu werden.
Und das ist Grund genug, dass wir unser
Leben als im Dienst an seiner Ehre
bestehend betrachten, wo es doch in ihm
seinen Ursprung hat.
問三「では人間の最上の幸福は何ですか」
Und was ist das höchste Gut für den Menschen?
答え「それも同じであります」
Eben dieselbe Erkenntnis Gottes.
みなさん、わたしたちは、これにアーメンと言える日常を求めたいのです。特に、苦難を抱える人、自分を縛りつけるかに見える労働に従事している人へ、申し上げたい。これを夕に朝に覚えることが、きっとあなたがたを霊的に解放するでしょう。試しに、つぶやくかわりに食前に問答してみてください。「あなたの人生の目的は」そして「最上の幸福は何か」それは「神を知ることだ」と。そのとき、日常生活に、「海の歌」を歌った人々と同じ喜びが満ちているはずです。
しかし、それでもわたしたちは神を忘れる弱さを持っています。主はよくご存知でした。そこで主は、何にも囚われずただ神を知る機会を、一週に一度わたしたちのものとしてくださいます。安息日・礼拝の日です。今日読んだ箇所が、安息日の記事で終わることは偶然ではありません。試みの毎日と休息の主の日とは、結びついています。譬えば安息日は、日常生活に血液を送る心臓です。呼吸した霊の御言という酸素でいっぱいの血を、人生という体すべてに送るポンプです。
モーセらがそうしたように、牧者は民を御言葉のもとに集め、神の現臨を示します。彼は共同体の罪の告白を執成し、神の救いの事実と約束の確かさを、全会衆への恵みとして告知します。民はつぶやく必要はなく、静かに聞き、それから祈り歌い、主と共なる歩みを始めます。与えられる御言は日常となります。ここに始まる日常では、天からの御言こそが本当の糧となるのです。
モーセは四十年後に、イスラエルの民にこう告げました。申命記8章2,3節。
「あなたの神主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。…主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」
主がパンを与えられたのは、人がパンだけで生きるのでなく、主の御言によって生きることを知らせるためだった。大変逆説的です。肉の試みと恵みは、主の御言に真の生命があることを知らせるためのものでした。肉だけでなく、霊においても満たす主を知れ。日用の糧はこうして御言の糧を指差します。御言から日常へ、日常から御言へ。それが聖書の告げる最高の生き方です。
最後に一言、わたしたちの確信を加えます。この旧約の歴史の上に、天から降られた神の子イエスが肉を裂かれ、血を流されたということです。聖餐式は、ある意味で荒野から教会が受け継いだものだと思います。礼拝と聖餐の中心は、肉をとられた御言を全人格で味わうことです。それは、地上にあって神を知ることであり、同時に、天の約束の国で与えられる至福を前もって味わうことです。天から真のパンと葡萄酒を味わう時、つぶやきは消え去ります。主がわたしたちに既に答えてくださっていたと気づくからです。霊にも肉にも飢え渇きがなくなるからです。主の御業により神の国は近づいたと知るからです。その認識に立つとき、わたしたちはもはや「つぶやく共同体」ではなく「祈り歌う共同体」とか「祝う共同体」と呼ばれるでしょう。さあ、男女こぞって主に感謝をささげ、救いの日のモーセの民のように、生ける主の栄光を讃えましょう!
祈 祷 (説教者による感謝と牧会の祈り)
主よ、あなたの御名をほめたたえ、わたしたちは祈ります。
その御名は高く、たぐいなく、あなたの栄光は地と天の上にあるからです。
主、われらの主よ、わたしたちはあなたの御手にとらえられ、
イスラエルと共に歩まれたあなたの歴史に触れ
あなたの御子イエス・キリストの十字架の御業に、かくも驚くべきあなたの御心を見たのです。
わたしたちは今・ここに、
歴史として思い起こし
現実として目の当たりにし
明日の希みとして楽しむべき
あなたの約束と成就についての確信を与えられています。
ああ、天地の造り主、全能の神なる主よ、
人は何者なので、これを御心にとめられるのですか?
万軍の主、全てを総べ治めておられる主よ、
わたしたちは何者なので、これを顧みられるのですか?
あなたはわたしたちと共なる方。わたしたちはあなたと共なるもの。
あなたはわたしたちのつぶやきも、叫びも聞いておられました。
わたしたちがその事実にはっと気付かされたとき、
あなたはすでに、あなたの独り子を通して、あなたの大いなる愛の現実に、
わたしたちを包んでくださっていたのでした。
今やあなたの御霊は生きて働き
日用の糧の味わいにも、あなたの永遠の御国を思わせるほどです。
ああ、主よ、今日から始まるこの一週の間も、わたしたちと共にいてください。
わたしたちを試みにあわせず、死より逃れさせてください。
あるいは試みの中でこそ、あなたの恵みによりすがって生きることができますように。
自らと愛する者の病に苦しみ悩む者を、確かな御手をもって支えてください。
肉においても霊においても飢え渇く者を、必要なものと御言で満たしてください。
災害や、自らの力ではどうしようもない大きな力に苛まれ泣くものたちに寄りそい、慰めと笑顔の機会を与えてください。
つぶやきに満ちた人間関係や、忙しさの中で疲れ果てている者たちに、心身の安息の日を与えてください。
平和の主よ、あらゆる小さな諍いから、あまりに大きな戦争やテロ行為まで、
全ての悲しい不和を取り去ってください。
世の指導者に主の恐れを教え、御心にかなった歩みへと、歴史を方向づけてください。
教会に語る言葉を与え、神と人とに仕えるために、必要な力を与えてください。
牧師とその家族を始め、御言の礼拝に仕えるものたちみなを、支えてください。
そうしてあなたの栄光に輝く御名が、天においてそうであるように
この地の子らにおいても現実としてほめたたえられますように!
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
讃 美 詩篇歌138編による讃美(Genfer Psalter138、大石翻案詞) 4、5節
4.高きにます主は 低きものを見たもう
高ぶるものをば 遠きより知りたもう
悩みに歩めど 我を生かしめたまわん
仇らにむかえど 御手を送りたまわん
5.解き放ちたもう その右の御手にて
主は果たしたもう 我がためにとすべて
慈愛こそをば主よ、とこしなえにたまえや
その御手の業よ 離ることなかれや
奉 献 (献金と献身、感謝祈祷)
主の祈り
頌 栄 父、御子、御霊の
終りの奏(祝福と派遣)