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2020年8月20日

「日本キリスト教会府中中河原伝道所月報」巻頭言目録

 お久しぶりです。酷暑のコロナ禍にあって、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

当ブログの更新が滞っているうちに、府中中河原伝道所は、2018年12月から、府中中河原教会としての新しい歩みをはじめました。コロナ禍をひとつのきっかけに、礼拝動画配信もはじめていますので、ご覧になってくださっている方もあるかもしれません(教会HP)。

加えてここに(次の投稿から)なりますが、私が牧師として赴任した2014年4月から2018年12月までの月刊の教会報(月報)の巻頭言を整理・公開します。以下の主題にもとづく、聖書の短いメッセージ集です。


「日本キリスト教会府中中河原伝道所 月報」巻頭言主題一覧 

  「詩編」   2014年 4月~ 「詩歌に愛された王」を中心に

         2015年 5月~ 「詩編の人間論」を中心に

  「山上の説教」2016年 1月~ 「幸い」を中心に

         2017年 1月~ 「主の祈り」(三要文①)

  「使徒信条」 2017年12月~ 「使徒信条」(三要文②)

  「ヤコブ」  2018年 6月~ 「ヤコブの夢物語」       


月報公開は、2016年の教会ホームページ開設時からの公の御約束でしたが、これまで着手できていませんでした。

伝道所時代のものを整理したのちに、2019年度・2020年度の月報も続けてアップしていきたいと思います。ご覧ください。

みなさま、暑い日々にあってお体をご自愛くださり、主の平安のうちにお過ごしください。


府中中河原教会

牧師 大石周平

 

 

2013年10月18日

新巻 『カルヴァンと旧約聖書 カルヴァンはユダヤ人か?』 (カルヴァン・改革派神学研究所叢書「改革教会の神学」1) 

2013年10月25日(もうすぐ!)
教文館より カルヴァン・改革派神学研究所編
『カルヴァンと旧約聖書―カルヴァンはユダヤ人か?』が出版されます!
(教文館HP)

2009年、日本キリスト教会カルヴァン・改革派神学研究所の主催で、スイスのチューリヒやドイツ・東フリースラントのエムデンから三人の先生方が招かれ、「カルヴァン生誕500年記念講座(カルヴァン500)」が開かれました。本書はその報告・記録・反響を集めたものです。わたしも、実務委員として関わらせていただいた経緯から、セミナーの準備と研究の報告として、カルヴァンの詩篇解釈に関する一文を書かせていただきました(報告というにはちょっと長くなりましたが…)。個人的にも、「生涯の研究テーマ」となるだろう主題のひとつを与えられたきっかけの講座でした。すばらしい講演をしてくださった先生方、ワークショップに参加し生き生きとした議論をご一緒に楽しんだ出席者の方々、出版のために長く労された研究所と教文館の皆様への感謝を覚えつつ、待ちに待った出版のお知らせをとても喜んでいるところです。

以下 帯より 「2009年にカルヴァン生誕500年を記念して、全国で開かれた講演や説教を収録。現代ドイツ語圏におけるカルヴァン・改革派研究の第一人者が、歴史の深みと信仰の魅力を存分に語る。カルヴァンの旧約聖書解釈の他にも、当時のジュネーヴの出版事情や、教会における音楽や建築、倫理の問題など、多岐にわたる主題を取り扱う。カルヴァンの信仰と思想を現代に受け継ぐための道しるべ。」

以下 目次

はじめに 「カルヴァン生誕500年記念講座」開会挨拶 南純

第1章 「カルヴァン500」へ
1 セミナー報告 カルヴァンと旧約聖書 大石周平

第2章 「カルヴァン500」
1 プログラム
2-1~3 礼拝説教 P.オピッツ/W.シュルツ/A.ラウハウス
3-1 主題講演 カルヴァンの旧約釈義 P.オピッツ
3-2 協力講演(1) 出来事と公共性 W.シュルツ
3-3 協力講演(2) ジュネーヴ詩篇歌と旧約釈義 A.ラウハウス
4 ワークショップ 詩篇46篇と138篇について P.オピッツ
5-1 神学校特別講義 改革教会と旧約聖書 A.ラウハウス
5-2 教文館特別講義 改革教会の教会建築と礼拝にとって持つ意味 A.ラウハウス

第3章 「カルヴァン500」から
1 「カルヴァン500」に出席して 大住雄一
2 カルヴァンにおける礼拝と社会倫理の結びつき 菊地純子

編者あとがき 菊地信光
学術社団「カルヴァン・改革派神学研究所刊行会」規約

以下 帯裏面より
「日本にある教会が、カルヴァンの詩篇理解を知ることで得られる益は大きいと思われる。私たちのこの地での歩みは、具体的な守りと力に囲まれているとは言えず、常に不安定に揺れ動く少数者の群れとしての歩みだと言わざるを得ないからである。カルヴァンが亡命者の唯一の避け所とした神のみ言葉により頼むことは、私たちの文脈でも確認されなければならない。それは、聖書の源泉から溢れるものを汲み出すという喜ばしい仕事を通してのみなされることである。(本文より)」

2013年6月22日

J・S・バッハ「心も口も業も命も」(BWV 147)訳と大意

今度歌うので、翻訳してみました。
その際にインターネット上で調べたことを
まとめ、印象を「ノート」として書きとめています。


「心も口も業も命も」
BWV 147 Herz und Mund und Tat und Leben


原詞:S.フランク/ 6,10のみM・ヤーン
邦訳:schu-hey


第1部

1. 合唱
心も口も業(わざ)も命(いのち)も
キリストにつき証なすべし
恐怖(おそれ)、偽善(いつわり)なく
そは神、救い主なれと。

2. レチタティーヴォ (テノール)
祝福されし御母(みはは)の口よ!
マリアはおのが魂の底に
感謝と讃えをもて告げ知らせ、
おのが内に語らい始める
救い主の奇(くす)しき御業(みわざ)を、
その卑女(はしため)たる処女(おとめ)に
 主が何を果たしたもうたかを。
おお 人の類(たぐい)、サタンと罪のしもべよ、
慰めをもたらすキリストの顕現により
この重荷と従属から
君は 解き放たれたり!
されど なが口 なが頑(かたくな)の趣は
黙して否(いな)むや、かかる穏便を。
いざ知れ、君に 御書(みふみ)によらば
大いなる 審(さば)きぞ 臨まんことを。

3. アリア (アルト)
ああ魂(たま)よ、君恥じることなかれ、
なが救い主を告白することを。
主は なれを ご自分の者と 証したもう
御父(みちち)の 御前(みまえ)にて!
されど この地にありて 主を
否みて恥じることなき者は
主によりてぞ 否まれん
主 御栄(みさかえ)に 入りたもうとき。

4. レチタティーヴォ (バス)
頑なが権力者らを幻惑せしむることあらん、
いと高き方の腕(かいな)によりて、その座を追われるまで。
否、その御腕(みうで)、高みに上がり、
御前(みまえ)に地の 震(ふる)うとも
しかるに悲惨に悩む者らを
かくも主は救い出(い)だしたもう。
おお いとも幸なる キリスト者らよ、
起きよ、備えよ
今こそ恵みのとき、
今日こそ救いの日、と救い主が言われる
なが身と霊(たま)は
信仰の賜物に飾られたり。
起きよ、主に呼ばわれ、熱烈な求めをもって。
そは主を信仰において、受け入れんがため。

5. アリア (ソプラノ)
備えたまえ イエスよ、今なお軌道を。
わが救い主よ、選び出したまえ
信じまつる魂を。
恵み深き目もて、我を見つめたまえ!

6. コラール
幸いなるかな、われにイエスあり
おお かくも確かにわれは主をとどめ、
主はわが心を力づける。
我病み、悲しめるとき
イエスぞ、われにあり―我を愛し、
われにご自身を与えたもう方。
ああ、ゆえにわれイエスを放すまじ
たとえわが心崩れ折れんと

第2部

7. アリア (テノール)
助けたまえ、イエスよ、われも君を証さんがため。
幸なるときも 悩めるときも、喜びのときも 悲しみのときも
助けたまえ、なれを わが救い主と呼ばわらんがため。
信仰にありて、平安にありて
わが心たえず、なが愛に燃えんがため。

8. レチタティーヴォ(アルト)
いと高き全能者の驚くべき御手(みて)は
世の隠されたところにありて御業(みわざ)なす.
ヨハネぞ御霊(みたま)に満たされて
彼を愛の契(ちぎ)りが寄せる
既に母の胎にありしより
彼は救い主を知り
その口で主を
呼ばわらぬままに
彼は動き、飛びはね、踊りたり
そのうちにエリザベトは奇跡を告げ
そのうちにマリアの口は唇の献げものをささげまつりぬ
なんじ、おお信仰者らよ、肉の弱さを認めるときに
なんじらの心 愛に 燃えながら
その口 救い主を 証せざるときに
御神(みかみ)はなんじを溢れる力で強めたもう
御神はみ霊の力を呼び起こし、
然り、感謝と讃美を なが舌に置きたもう。

9. アリア (バス)
われイエスの奇(くす)しき御業(みわざ)を 歌い
主に唇の献げものをささげん。
主は主の愛の契約に基づき 
弱きこの肉と 世にある口を
聖(きよ)き 火もて 強めたまわん。

10. コラール
イエスぞ保ちたもう わが喜びを
わが心の慰め、潤いを。
イエスぞ退けたもう あらゆる悩みを。
主はわが生命(いのち)の力
わが目の望みにして太陽
わが魂の宝にして歓喜
ゆえにわれイエスから
この心と顔を放さじ。

Copyright © 2013 Shuhei Oishi All Rights Reserved.

ノート:

歴史

 1723年夏にライプツィヒで初演されたこのBWV147には、BWV147a というカンタータを巡る前
史がある。それは、領主との不和で終結したことで有名なヴァイマール時代の終わり、1716年のこ
とだった。待降節(アドヴェント)第四主日用にカンタータを準備していたバッハは、突然その仕事
を放棄してしまう。当時の宮廷楽長ドレーゼが同年12月に死去したことで、後継者問題が生じた
ためだ。楽師長として宮廷副楽長に勝る仕事をしていたバッハは、実力に関わらず楽師に任命さ
れえないことを知ったとき、傷心のうちにヴァイマールを去ることを決断したのであった。その後安
息のケーテン時代にもこの曲に手を着ける機会は訪れず、この曲がついに日の目を見るのは、
バッハがライプツィヒのカントールとして就任した翌年であった。ただ、BWV147は、先立つ作品に
かなり大きな改訂を加えたものになったようで、しかも初演は待降節にではなく、夏、7月2日の
「マリアのエリザベト訪問」の祝日に行われた。

主題

 待降節用の詩とカンタータを、なぜ、夏の祝日に用いることができたのか。それは、伝統的な教
会における、このカンタータの土台となる主題聖句=新約聖書ルカによる福音書1章39節から59
節の取り扱いの多様性に由来する。ここに伝えられているのは、「訪問」と呼ばれる場面である。す
なわち、後に救い主と呼ばれる赤子を処女にしてみごもった妊婦マリアが、後に洗礼者ヨハネと呼
ばれる赤子を高齢にしてみごもった妊婦エリザベトを訪ねるいきさつが記されている。処女妊娠、
高齢妊娠は、命の出産に関わる神の力の強調としては、極まったものである(特に後者は、旧約
聖書時代より、神の命をもたらす力を強調する伝承パターン。族長アブラハムの妻でイサクの母サ
ラの高齢出産、預言者サムエルの母ハンナの出産などに既に例がみられる)。後に洗礼者として
イエスに再会し、人々に救い主の到来を告げるヨハネは、母エリザベトの胎にいるうちから既にお
腹の中でよろこび踊ったと聖書は伝える。そこで、エリザベトは、この赤子の「動き、飛びはね、踊
る」様子から、マリアの生もうとしている子が神に祝福された存在であることを知り、神と赤子を「讃
美」する。それに応じて、若きマリアも賛歌を歌う。有名な「マ(グ)ニフィカート」である。
 この箇所が、待降節に朗読され歌われるにふさわしい理由は明らかである。というのも、新約聖
書ルカによる福音書の文脈自体が、これを、クリスマスの出来事、すなわち、2章の「イエスの誕
生」の記事に直接先立つ場面として、この記事を位置づけているからである。エリザベトのマリアへ
の祝福の言葉は、生まれる前からマリアに生まれる子を讃美する内容であり、そこにはいわば、クリスマスの前味を味わう世界で最初の女性の声がある。マリアの賛歌は、さらに旧約聖書まで視野
において、イスラエルに救いを約束し、人々の救いを準備してこられた神が、ついにその成就を果
たそうとなさっていることを讃える。したがって、マリアの口は、旧約聖書の引用で満たされている。
その約束の成就としての救いの喜びこそ、クリスマスで世々の教会が覚えてきた中心主題だった
のである。
 一方、西方教会の暦の上で、この箇所が7月にこそ朗読されるにふさわしいとされたのは、出産
にいたる妊娠期間が考慮されたからであろう。聖書では直接誕生の記事が続くとしても、妊娠後す
ぐにマリアが出産したわけではなく、そこには通常の妊娠期間が考慮されるべきだと考えられたの
である。したがって、12月25日をイエスの誕生日、クリスマスだとするならば、この視点からは、
数ヶ月前に「訪問」の祝日を置くのがふさわしい(とはいえ、バッハの時代には7月2日とされたこの
祝日は、今の教会では5月31日とされているようであるが)。
 ここに、ルカによる福音書1章39節以下を引用しておく。

  そのころ、マリアは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町へ行き、ザカリアの家に入ってエリサベツに挨拶した。エリサベツがマリアの挨拶を聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上が私のところに来てくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。するとマリアは言った、「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち世々の人々は、私をさいわいな女というでしょう、力ある方がわたしに大きなことをしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、世々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶるものを追い散らし、権力ある者を王座より引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕(しもべ)イスラエルを助けてくださいました。私たちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。マリアは、エリサベツのところに三ヶ月ほど滞在してから、家に帰った。

BWV 147の詩の大意、個人的な印象

 *一部、≪善悪≫の対比の色濃い、かつての教会の言葉遣いで満ちていて、少し現代人
には厳しく聞こえる詩かもしれない。現在の教会は、むしろ、このようなイメージの言語を避ける傾向もある。それは、ときに善悪の二元論に陥って、自分たちだけを聖とし教会の外を断罪してしまった教会の歴史的な過ちを繰り返さないようにという反省があるからであろうか。その点に注意しつつ、このテクストと旋律が第一のものとする「救い」の強調、深い「願い」と「喜び」の基本線を受け止めるようにしたい。

 1.
   聖書から直接引用された言葉ではなく、教会的な信仰告白と証のよびかけが冒頭におかれ
   る。第一行は、構成上、≪口(言葉)―業(行い)≫を、≪心―命(+魂)=全人格≫が囲んで
   枠付けている。キリストは神(の子)であり、救い主であるという信仰告白は、口はもちろん、信
   仰者の行いをもっても、心を尽くし、命を尽くす(旧約聖書申命記6章)全人格的な在り様で、
   人々に明らかにされなければならない。
 2.
   マニフィカートを歌い始めるマリアに働く神の力への讃美と、サタンの断罪の対比がある。「人
   の類」の罪がサタンの「奴隷」たるものとして暴かれる。人が、良くない主人に仕えるとき、そこ
   にあるのは重労働と足かせである。しかし、神がマリアから生まれさせる救い主によって、神
   は本来の自由な子の身分に人々を救い出そうとしている。いや、教会の視点でいえば、その
      救いはすでに成就したと告白されている。教会はその救いを聖書に学び、その言葉に信を置
   いているが、もし記されている救いに聞く耳を持たない頑なさになおとどまっているとすれば、
   それは不幸であり、罪の奴隷としての「裁き」の現実が解決することはない。古い教会の厳し
   い言葉遣いだが、いずれにせよこれは、だれかを断罪する言葉であるよりは、解放へと招く意
   図で語られている言葉であろう。奴隷の状態からの解放、頑なさからの自由という主題は、旧
   約聖書出エジプト記のモーセの物語以来の古い主題である。
 3.
   1で語られた証の必要性が、より個人的な魂への呼びかけの言葉として表現されている。加
   えて、ここにはやはり現在の教会では強調されなくなってきた「罪の裁きの場面」のイメージが
   現れる。主イエスは、神の前で信仰者を自分のものだと主張する。サタンの奴隷ではなく、神
   の子のものだという証言を、裁きの座で神の子自身が引き受けてくださるという教会の信仰が
   ここにある。このイエスといういわば良き「弁護士」に弁護されたものには、「栄光」が待ってい
   る。その弁護を拒否することは、2.の奴隷状態に留まることを、自ら神の前に証言しているよ
   うなものである。
 4.5.
   前半は、ルカによる福音書のマニフィカートの言葉である。マリアは、弱きものが強められ、低
   きものが高められることに驚き、そこに神の力を認める。その際、もちいられている言葉遣い
   は、旧約聖書の時代以来、たとえば「ハンナの祈り」(サムエル記上2章)のような例がある、
   古い神讃美の伝承パターンに基づいたものである。マニフィカート以外にも、イザヤ書11章
   や、「今こそ救いの日、喜びの日」の詩篇など旧約聖書の引用がここにはある。バッハの時代
   はもちろんのこと、教会は、弱者に視点を向け、高ぶりをくじく神に希望を表明した古来の祈り
   をイエスによる救いとの関係で祈っている。イエスは救いにいたる道である、そのことを受け入
   れるための熱烈な信仰が強調される。
 6.
   救いと裁きの間に立って、緊張をもっていた詩人が、ここでは、キリストを「もって」いることに
   憩いを見出している。ここでは、自分の弱さが問題なのではなく、弱さの中でイエスが共にいて
   くださることの力強さへの信頼が讃美の歌となっている。また、イエスが「われ」に与えたもうも
   のは、「愛」である。すなわち、みずからの命をささげても救おうとする自己犠牲の完全な愛で
   ある。
 7.
   愛するための助けを繰り返し求める声から第二部ははじまる。結婚式の誓約で語られる富め
   るときも、やめるときも、という表現を思い起こさせる詩文から、イエスを生涯愛する対象とし
   たいという詩人の求めが表現されている。この人がつねに求めているのは、冷めた感情では
   なく熱烈に燃える愛である。
 8.
   ルカによる福音書1章39節以下の「訪問」の場面が描写される。後に洗礼者となる赤子が、
   母の胎にあるうちよりマリアの子を救い主と知り、喜び踊る。そこからエリザベトの祝福と讃美
   の言葉、マリアの賛歌が生まれるのである。そのような愛の結びつきが契りという言葉で表現
   され、これを歌い聞くものたちに、同じ結びつきのうちにあって歌うことを促している。
 
 9.
   そこで生じるのが信仰者自身の口による賛歌である。契約という言葉は8の契りという言葉を
   受けているが、マニフィカート内にも用いられている旧約聖書来の神と人との約束の関係のこ
   とである。聖なる火のイメージは、これもやはり、預言者イザヤの書の6章などの例に見られ
   るように、古来罪の赦しとの関連で用いられてきた象徴言語である。
 10.
   第一部の終わり同様、第二部も、個人的なキリストとの結びつきの中で憩い歌う信仰者の信
   頼に満ちすべてを明け渡した言葉で閉じられる。こうして心と顔を救いへと人格的に向けたま
   ま、信仰者の人生は歩みとおされてゆく。
   
最後に 「主よ人の望みの喜びよ」について
 6.と10.に用いられているバッハの美しいメロディで親しまれるこの曲、歌詞はマルティン・ヤー
ン作、<Jesu Meiner Seelen Wonne イエス、わが魂の喜び>の第6、16節。しかし、この有名な
邦題は、ピアニスト、マイラ・ヘス の訳になる英語題≪Jesu, joy of man's desiring≫ の直訳であり、ヤーンの題名とは異なる理由はそこにある。

2013年1月1日

Ein in den Augen Gottes gutes neues Jahr! 神の目によき新年を!





Genau wie dieser Film (ab 1:11) in Youtube: 


Das Jahr 2012 unsrer Familie endete mit Trompetengeschmetter, aus dem Turm des Baslermünsters, -und mit den Lobgesängen aus dem 16./17. Jahrhundert, die wir kurz vor dem Gottesdienst draussen mitgesungen haben. Danach begrüßten wir im Münster das Jahr 2013 mit Freude, schönem Orgelspiel und wieder mit unseren Gesängen. Nun wünsche ich Euch/ Ihnen ein gutes, gesegnetes neues Jahr! Und wünschen wir uns vor allem, dass das es in den Augen Gottes ein gutes frohes Jahr wird.

わたしたち家族の2012年は(以下の動画と変わらない状況で)、バーゼル大聖堂の塔の上から響くトランペットと、それに合わせて礼拝前に星空の下で歌う16-17世紀の讃美歌と共に終わりました。その後、私たちは歓喜と、オルガンの美しい音と、再びの歌声の響く大聖堂内で、新しい2013年を迎えました。今、わたしたちは、新しい一年がみなさんにとって、喜びと祝福に満ちたものとなるように、お祈りしています。そして何より、神さまの目に、良い、喜ばしいと映る年になるように願っています。

Lobe den Herren den mächtigen König der Ehren
lob ihn, o Seele,
vereint mit den himmlischen Chören.
Kommet zu Hauf,
Psalter und Harfe, wacht auf.
Lasset den Lobgesang hören.

力の主を ほめたたえまつれ
我が心よ、今しも目覚めて
竪琴(たてごと) かき鳴らしつつ
御名(みな)をほめまつれ
 — 

2012年5月29日

韻律詩篇『ヨナの詩篇』

ジュネーヴ詩篇歌51(=69)の旋律で (Molodie:EG51=Straßburg1539 / Genf1551)


1 苦悩(なやみ)の淵より、主を
我呼びし。主は聞きたもう
シェオルの肚(はら)より叫ぶ
我が声に答えたもう
二度(ふたたび)まみえがたし
あなたの聖なる宮に
 否、わが祈り届く
あなたの聖なる宮に

2うねる大波(なみ)、めぐる深淵(ふち)
わが喉(のど)に至れる水
 頭(かしら)に水草絡み
衰う、わが魂(たましい)
山の根底(もとい)に下る
地、永久(とわ)に閂(かんぬき)閉ざす
 あなたの前を追われ
げに、我は主を思えり

3 否、我が神なる主は
我を引き上げたまえり!
 我が命、わが魂
穴より吐きだされし!
 ささげよ、感謝の歌(こえ)
果たせ、信実の誓い
 空しき虚ろになき
御救いは主にこそあり!


翻案:©Schu-hey 2012
旋律参照:改革教会礼拝歌集「みことばをうたう」
(エルピス、2006年)より、詩篇51



私訳『ヨナ書(ヨーナー)』第二章



 2:1 さて、主(YHWH)は備えた 大いなる魚を、ヨーナーを呑み込ませるために。
かくしてヨーナーはあった、その魚の腹の中に 三日三晩。
2 そこでヨーナーは祈った 自分の神、主(YHWH)にむかって。3 曰く;

    私は呼ばわった 苦悩(なやみ)の中から 主(YHWH)にむかって。すると、主は私に答えてくださった
   陰府(よみ)の肚(はら)から 私は叫び通した。すると、あなたは聞いてくださった-わたしの声を
4        あなたは私を投げ込まれた 海の真中の深みに。
      かくも潮流(ながれ)が私を囲み、あなたの波浪(なみ)、あなたのうねりがこぞって私の上を超えた
5              私は、言った『私は追放されてしまった あなたの目の前から。
        どうして再び見ることがあろうか、あなたの聖なる宮を』
6                 水は私をめぐった 喉)(魂)にまで。深淵(ふち)
)
は私を囲み、水草が絡みついた 私の頭まで
7                       山々の基まで 私は下った。地、その閂)は 私の後ろに 常しえまで。             
              しかし、あなたは引き上げてくださったのだ、
        穴から 私の命を。私の神,主(YHWH)よ
8                   私の喉)(魂)が私のうちに衰えるとき、主(YHWH)を 私は思い出した。  
      すると届いたのだ、あなたに 私の祈りが-あなたの聖なる宮に
9             空しい虚ろをまもる者らは 自分(へ)の信実を棄て去る。
10        だが、私は、感謝の声をもって 犠牲をささげよう あなたに。 
   すなわち、私の誓願(ちかい)を果たそう。御救いは主主(YHWH)に。」  

11 そこで、主(YHWH)は言われた、魚に。するとこれは吐き出した ヨーナーを 陸にむかって。



©Schu-hey 2012





2012年4月19日

対話の詩編22編―(ヴェスターマン&関根正雄)


      詩編23編―(ヴェスターマン&関根正雄)*
                                                        

1聖歌隊の指揮者によってあけぼののめじかの調にあわせてうたわせたダビデの歌
2わたしの神よ(エリー)、わたしの神よ(エリー)/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
3わたしの神よ(エローハイ)/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。

唐突に神への告発で始まる。ここで、神を呼び求めている者が神に対して、神が彼を捨て去ったと抗議を申し立てている。彼には、神との間の断絶の理由がわからない。2節aでは、神が「何故見捨てたのか」を神に問うている。2節bと三節では、神を昼も夜も呼び求めていたのに、返事がない、神は耳を傾けない、と言われている。いわばヨブに似た状況であって、神が御自身の側からなぜか人との関係を絶たれた、というところから問題が始まっている。詩人にとって神との交わりは余りに当然のことであるのに、今やそれが神の側から奪い取られた。これは丁度イエスの受難の時の状況であり、二節が十字架上のイエスの口から繰り返されたと福音書記者は記している。祈る者は、答えのない中で苦難に耐えなければならない。もし、この呻きと呼び求める言葉を神が聞いて答えてくださらなければ、この苦しみの状況は変えられない。
 しかし、神が聞いてくださり、答えてくださりさえすれば、この苦しみの状況に転機が訪れるはずである。詩人は神に捨てられた状況の中で、「わたしの神よ、わたしの神よ(エリー、エリー)」となお神に縋っている。エリヤだとか、他の誰かとか、神以外の何者を呼ぶのではない。彼は、「何故」と言って神を訴えながら、一番深いところで神に服従しているのである。「わたしの神」が二回繰り返されていることは、旧約の語法としては珍しいことだと言える。神はなおも自分の神であり続ける。神に捨てられた神なきこの詩人の状況において、神は詩人に最も近いのである。


4だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。
そのことが全く顕かとなるのは22節後半からであるが、4-6節も今の状況下でのギリギリの信仰告白である。なお聖所は高く、わたしとは隔たっており、神御自身は、人の手の届かないところで、沈黙し続けたままでおられるが、神のいない場所などないということに詩人は縋るべき細い一糸を見出そうとするのである。イスラエルは、神を高くすることが、讃美することだと知っていたはずではないか。神は、ほめたたえの中で、高き方として崇められる存在であったではないか。

5わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。
6助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。

そこで詩人は、父祖たちの信頼の事実を想起する。彼は、神の民の歴史に、神関係の根拠を捜し求める。「かつて」は、「依り頼んで」「依り頼んで」「依り頼んで」救われたものたちがあった。たしかに、「わたしたちの先祖はあなたに依頼み、依り頼んで、救われてきた。」ずっと昔のことである。しかし、これまでの嘆きと対照的なこの「救い」という主題は、現在の嘆きから抜け出す大切な一歩である。

7わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
8わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
9「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

「しかし、わたしは・・・」彼には、「依り頼んで」も神の助けはなお現実となっていないと思わざるをえない。そこに、苦しみの社会的な側面が展開される。すなわち、その苦しみとは、人から恥を受けることである。問題は、他の人々がこの詩人が神に見捨てられたと攻撃することから始まっている。彼らはこの詩人を侮る、つまり、神はもはや彼を助けず、心にもかけない、と。彼らは、これは神の正当な処罰であると考えている。神関係を顕在的には失っているその只中で嘲りを受けるこの詩人は、「わたしは虫けら、とても人とはいえない。」と、一人称の嘆きに戻っていかざるをえない。たしかに、人の前ばかりではなく、神の前に自分が失われ、人格性を喪失しているという罪の全体的な自覚を告白せざるをえないのである。(キリストの受けた嘲りを思う。彼は罪なきにも関わらず、十字架上でこの詩人の告白をまるで罪人のように祈られたのである。)

10わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
11母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神(エリー)。
12わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

しかし、詩人はもう一度、その信仰の根拠、神関係の根底を人間の側の意識や自覚にではなく、神との関係そのものに―具体的にはおそらく自分を産んだ(父)母の信仰を媒介にして―求めている。4-6節で先祖のことを想起していたとすれば、ここでは詩人はもっと身近な自分の父母、自覚以前の自分の過去を神の前に持ち出している。誕生以来、これまでずっと神は自分を守り続けてくれたではないか。神が存在しなかったならば、一瞬たりとも自分は存在することがないようなもの。神によって創造されたものとして、彼はふたたび、この詩編の冒頭にあった「わたしの神」との祈りを取り戻し、この祈りという希望に縋るのである。「わたしを遠く離れないでください。」この願いは、20節でも再び取り上げられることになる。嘆きの中の唯一の拠り所は、「わが神」が、「離れない」つまり、「共にいたもう」(インマヌエル)ということのみなのだ。

13雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。
14餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
15わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。
16口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
17犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
18骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
19わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。


13-19節では、嘆きが連続して出てくる。2-3節は、神に対する嘆き、7-9節は、一人称の嘆きであり、恥と言う悲しい目に遭うことを嘆いていた。再び15節で一人称の嘆き、16節で神に対する嘆きを見て取ることができる。「骨」「心」「口」、その人間全体を包括するような苦難そのものが語られ、それが、死ぬほどの苦しみであるといわれる。「あなたがわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」詩人は、命を司る神にこそ、この苦難を訴えねばならない。
他方、敵に対する嘆きが、13-14、17-19節に登場する。敵の存在自体が悲しみである。ここで、敵に対する嘆きとその他の嘆きが相互に密接に結びついている。もはや、誰が敵であり、何を敵対者が行ったのか、ここで嘆いている者の苦悩が何処にあるのか、実はよく分からない。ここで出てくる動物は、クラウスの言うように、病のデーモンだろうか。衣服を奪われている詩人は、死刑囚の場合を言っているのだろうか。(イエスの十字架がやはり思い出される。「骨が数えられるほどになった(裸の)からだ」を、「さらされ」、彼は衣服を奪われた。兵士はイエスの着物を分け、衣を自分のものとしようと「くじを引いた」。)あるいは、詩人が自分の体験を直接的に描いているというより、苦難の烈しさを種々のイメージで描いていると見るべきかもしれない。「獅子」「牡牛」「野牛」さまざまに襲い来る苦難!いずれにせよ、彼は多くの迫り来る苦難に打ちのめされているのである。

20主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。
21わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。
22獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。
神の力のみに縋る詩人によって、12節の願いがここで再び取り上げられなければならない。構造上注意すべきことに、12節では困難からの救出が願われているのに対して、20節では敵対者たちの面前での救いが願われている。敵対者たちは、再び野生動物として描かれている。

23わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。24主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
25主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
26それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
27貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。


第二部では、23、25節(第一部と二部を結ぶ間接!)に嘆きの結びが拡大されて、嘆きが神へのほめたたえに変化する。今や、はっきりと救済が期待されている。ここで意図されているのは、ただ単純に喜びながら、応答することである。応答とは、まず「語り伝え」ること、物語ることである。そして、喜びを共にする人々と共に主に栄光を帰し、讃えの歌を歌うことである。彼の祈願は聞き届けられたのだから。ここで目立つ事は、(23、)26節にある「誓い」である。救われた者がその救いを集会の中で述べ、感謝の献げ物をささげ、27節からみると共同の食事(犠牲の食事)の席を設けることが、「誓い」内容のように見える。直接の祭儀的背景と解する必要はないが、自己の救いを他の人々にともに喜んで貰うことが詩人の大きな関心であることだけははっきり窺われる。そこには、貧しい者たちも招かれている。いや、貧しい者たちこそ、招かれている。「貧しい者」こそ、「主を畏れる者」「主を尋ね求める者」だからである。

28地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。29王権は主にあり、主は国々を治められます。
30命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
31-32子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

しかし、詩人の神讃美は教団の中に閉じ込められるものではない。その苦難が底知れず深く、その体験した救いが限りなく深かったのに応じ、その讃美は限りなく広がり、「地の果てまで」「国々の民」にまで及び、陰府にある者にまで及ぶ。諸国の氏族に広げられた神の王的支配を見ることもできる。そしてその支配について、詩人は大胆にもその死を超えた先にまで及ぶとしている。そして、さらに最後には、時間の枠も超えられている。
「まことに彼はその御業を果たしたもうた」(32)、この最後の間投詞句一句で詩人は彼の体験したことの意味をもう一度明らかにしている。救いは神の御業なのであり、それゆえ讃美は彼にのみ帰せられるべきなのである。神は働かれた!彼はこのことを経験した。この詩編の最初の文章と最後の文章との間にある大きな落差に注目せよ。神が働かず、聞かず、ということを経験したからこそ、今や彼は大きな転換を経験することになったはずである。この変化を経験したからこそ、彼はそれについて語ったはずである。彼が物語らねばならないことは、更に増えたに違いない。というのは、神が働いていたからである。旧約聖書神学が語るのは、まさに神の働きについてであり、すなわち、神と人との間に既に起きたこと、今起きていること、そして将来起ることについてなのである。
この詩をイエスの救いと切り離してわれわれは読むことができない。ヴェスターマンは、キリストは22編の嘆きを御自分の嘆きとした、この地上を歩まれたイエスのつとめは、嘆きを讃美に変えることであった、という。われらの絶望を荷い、われらより低く神なきところに下られたイエスの救いをこの詩はわれわれに示す。

* 引用/参考文献
           クラウス・ヴェスターマン『詩篇選釈』、教文館2006年
           関根正雄『詩篇註解(上)』教文館、1971年


2011年10月16日

韻律詩篇138

韻律詩篇138
ジュネーヴ詩篇歌の旋律にのせて

心を尽くして       汝(な)れをばほめ讃えん
御神にむかいて     汝れをばほめ歌わん
聖のます宮に      向かいて伏し崇むる
愛、真(まこと)ゆえに  御名をほめ称うる

まこと御名ゆえに     言(こと)の葉(は)、大いなれ
我呼びしときに      応えたもうは汝れ
汝れこそは我に      力を加えたもう
我が魂(たま)のうちに  力を添えたもう

主よ、地の王らの     皆讃えたもうは
まこと汝が口の     言の葉、聞きたれば
「主の御栄こそ      げに大いなるもの」と
歌うは彼らぞ       主のいます道の途

高きにます主は    低きものを見たもう
高ぶるものをば    遠きより知りたもう
悩みに歩めど     我を生かしめたまわん
仇らに向かえど    御手を送りたまわん

解き放ちたもう     その右の御手にて
主は果たしたもう    我がためにと全て
愛こそをば、主よ    とこしなえにたまえや
その御手の業よ    離ることなかれや 

© 2007 Schu-hey 

以上 2007年11月9日 以下のヘブライ語詩篇138のschu-hey自身による
私訳直訳に基づき、ジュネーヴ詩篇歌の旋律に合わせて翻案しました。


詩篇138

ダビデのもの

あなたをほめ讃え(感謝し)よう わが心すべてより
御神の御前で あなたをほめ歌おう

ひれ伏そう 聖の宮にむかい
ほめ讃え(感謝し)よう あなたの御名を(に)

あなたの慈愛/いつくしみのゆえに
またあなたの真実/まことのゆえに

実に、あなたが大いなるものとされたのです
あなたの御名のすべてのゆえに 仰せを


あの日わたしが呼んだとき あなたはわたしに答えてくださった
あなたはわたしを高めてくださる わたしの魂を 力によって


あなたをほめ讃えるでしょう、主(YHWH)よ 地のすべての王たちが
実に、彼らは聞いたのです、あなたの口の もろもろの仰せを

また彼らは歌うでしょう 主(YHWH)の道すがら
実に、大いなるものなのです 
主(YHWH)の栄光こそ!

実に、高き方は主(YHWH)であられるが
低き者を見ておられる
一方で、高ぶる者を遠くより知っておられる

たとえわたしが艱難のさ中を歩いていようとも
あなたはわたしを生かしてくださる

もろもろの敵に相対そうとも
あなたは遣わしてくださる、あなたの御手を

そしてわたしを解き放ってくださる、あなたの右の御手で
主(YHWH)は成し遂げてくださる、わたしのために

主(YHWH)よ、あなたの慈愛/いつくしみは とこしえまで
あなたの御手によるもろもろの御業が 離れることがありませんように

© 2007 Schu-hey 

http://www.youtube.com/watch?v=WDY9Y489YK0&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=FaYvx_oOVj4&feature=related

2011年10月8日

韻律詩篇16

詩篇16 に基づく韻律詩―讃美歌(1954年版)14番の旋律で。


1.神(かみ)よ、われをば 守(まも)りたまえ
今(いま)ぞ御(み)もとに 避(さ)けきたらば
君(きみ)こそわが主(しゅ) わがよろこび
主よ、主のほかに 幸(さち)はあらじ

2.地(ち)に住(す)む友(とも)よ、聖(きよ)き徒(と)らよ
主のほか誰(たれ)ぞ 傷(いた)みを知(し)る?
血(ち)を神々(かみがみ)に? 名(な)を女神(めがみ)に?
尊(とうと)き子(こ)らよ、主のみ仰(あお)がん

3.主はわが嗣業(ゆずり)、わが杯(さかずき)
君ぞ握(にぎ)れり わが籤(さだめ)を
わがため落(お)つる 測(はか)り縄(なわ)の
指(さ)すは麗(うるわ)し 御国(みくに)の分(ぶん)

4.われ祝(たた(と))う 主を、常(とこ)しなえに
夜(よ)ごと朝(あさ)ごと その諭(さと)しに
心臓(こころ) 歓(よろこ)び 肝臓(はら)は踊(おど)り
肉(からだ)は安(やす)し 霊(われ)揺(ゆ)るがじ

5.われ主を前(まえ)に 常(つね)に歩(あゆ)まん
わが右(みぎ)の座(ざ)に 神在(いま)さば
麗(うるわ)し 楽(たの)し 命(いのち)の道(みち)
知(し)らしめたもう 主よ、君こそ

6.わが魂(たま)、陰府(よみ)に 棄(す)ておかれじ
君は愛児(まなご)に 墓(はか)を見(み)せじ
満(み)てる喜(よろこ)び 命の道
永遠(とこしえ)にあり 前に、右に

© 2011 Schu-hey

Text; 詩篇16(MT/ヘブライ語)からの翻案詞 S.O. 26.05.2011
Melodie; nach Bartholomäus Gesius, 1605 (Michael Praetorius 1610)
『讃美歌』(1954)14番,『ドイツ語圏スイス福音主義・改革教会讃美歌集/RG』(1998)11番


http://www.youtube.com/watch?v=7wryFOE1Sh4