2012年12月17日

「私、ワタシ、わたし」の疑わしき三位一体では、自分が損なわれるばかりです!―フラウミュンスター説教より

チューリヒ・フラウミュンスター教会の説教の日本語訳、
久しぶりに更新できました。

アドヴェント(待降節…イエスの降誕を待ち望むとき)第二週の礼拝、
哲学教授牧師
二人によって対話の説教が行われました。

ここでは
ソクラテス・プラトン、そしてセネカと、
新約聖書や教会が

「自分(自己認識)」

をテーマに膝を突き合わせます。

「わたし、わたし、おまけにわたし!」

そう声高に吼える人
政治のうえでも
社会でも目立ち、
しかも大衆の支持さえ得る中で、

本当に自分を理解するためには、他者が必要

だと、哲学、神学双方から示されます。

こなれない拙訳ですが、
どうぞ以下教会HPからダウンロードして
お読みください。


以下に、牧師の説教から一部引用いたします。

 神なしに、かつ共なる人なしに自己を見出そうと欲するもの、その人は、おそらく、ただ疑わしいばかりの三位一体に直面することになるでしょう。ちょうど、アメリカの曲名「My, Myself and I(わたしの、わたし自ら、そしてわたし)」―ドイツ語に翻訳しようとすると、「Ich, Ich und nochmals Ich(わたし、わたし、おまけにわたし)」となるでしょうか―に似た響きが心に浮かびます。こういった疑わしき「わたし」の三位一体を、わたしたちは自分たちの文化のうちに持っていますし、特に最近でもあの銀行のスキャンダル以降、まったく多すぎる…と感じるほどです。
 さて、今や、それを押しとどめるのが、この大きな、そして挑発的ですらあるイエスの言葉です。「だれでもわたしの弟子となりたいと思うなら、自分を捨てなければならない」―つまり、これは、この支配的な「私・わたし・ワタシ」に距離を置くことができる、ということです―。彼は、自己中心化を押し破ってひとつ歩を進めることができるに違いありません。そうして、「自分の十字架を負う」のです。ここで、ソクラテスの演説に近づきます。「自らのことのみを考えるもの、これは自己を損なうもの」―まさにそう、ソクラテスは、死への準備の只中になってなお、その裁き手たちの自己について考えていたのでした―、というのも、ここに立ちはだかっているのはただ自己 〔エゴ Ego〕中心的な自己 〔Selbst〕  ばかりではなく、「人間」それ自体であり、しかも、その人間とともに危険にさらされているのは、他ならぬ「真実」だからです。