2012年7月9日

リマトからエンメへ~川沿いのキリスト教史 1

チューリヒの中心を流れるリマト川。
そこには多くのドラマがある。

伝説の聖人フェリクスとレグラが現在の
「水の教会」がある川辺で斬首された。
信仰を理由として。
だが二人はなんと、切り取られた頭を自ら(!)抱えて
川沿いから丘へ数十歩のぼり、
そこで息絶えたという。



彼らが倒れた地は墓所となり
のちにそれを見出したカール大帝によって
修道院となった。
それが、現グロスミュンスターの前身である。
カール大帝は、自ら乗っていた馬が
突然その地で跪き、動かなくなったことをきっかけに
その場所を調べるに至った、と伝えられている。


グロスミュンスター内の彫像/カール大帝、聖フェリックス、聖レグラ

だが、実は、カール大帝が歴史上この地を訪れた史的証拠はない。
おそらく本当のところは、修道院建設に関わった
孫のカール肥満王に関連する伝説なのだ、と言われている。

とはいえ、信仰を理由とした斬首には、史実の根があるのだろう。
その人々の記憶が、物語となり、伝説となった。

ここで考えたいことは、史実と伝説を分けることではなく、
むしろ、多くの人々の口をとおして語り継がれることが、
ついに歴史を形成する力とさえなってきた、ということだ。

現に、その伝説なしには、
水の教会やグロスミュンスターは存在しただろうか。
伝説を用いた政治家や、宗教家がおり、
それを受け入れた民衆がいて、かの堂々たる大聖堂はなった。

グロスミュンスターがこの地になければ、
ここで宗教改革者ツヴィングリが説教することも、
仲間と一緒に聖書を翻訳することもありえたか。
聖像破壊・撤去がなされた宗教改革後も
カール大帝の伝説は息耐えることがなく
今も、カールは大聖堂から街を睥睨しているのだ。



その後、現在に至るまで、この場所が
チューリヒ大学神学部や宗教学部、
あるいは宗教改革研究所の置かれる場所であることも
この伝説によってつくられた歴史の結果といえないだろうか。
歴史に「もし」を持ちこむ極論ではあるが・・・。



チューリヒ大学のロゴには、グロスミュンスターとカール大帝が描かれる。



もちろん、伝説は伝説である。
が、私たちは、歴史をどのように物語るか、
あるいは、今わたしたちが直面していることを
どのように語り継ぐか、によって
これからの歴史はつくられる側面があることを、
自覚しておきたいと思う。

* * *

さて、現在、そのリマト川の船着き場(跡)のひとつに、
こんな記念碑がある。






「この辺りの船着き場を出て
 ここ、リマト川の真ん中で
 宗教改革時代、1527年から32年の間に、

 フェリックス・マンツと五人の再洗礼派が

 溺死させられた。

 最後の洗礼派としてチューリヒで1614年に

 死刑とされたのはハンス・ランディスであった」



宗教改革後に生れたリマトのもう一つの信仰のドラマである。

あまり、多くの人が語り継いでいる、とは言えず
街の歴史をつくった、とも言えない。
むしろ、歴史の表舞台から、消されかかった出来事ではある。

が、現在も、彼らの存在は、
「宗教的寛容」に関する議論を促して止まない。
そんな意味で、少数の声が歴史に大事な一石を投じる例だと言える。


教会史に興味のある多くの人は既にご存知のとおり、
水死刑にあった人々は、もともと、
宗教改革者ツヴィングリと初めは歩みを共にしていた。
しかし、小児洗礼拒否の問題など、
当時権威をもった宗教者たちには受け入れがたいほどに妥協なく
聖書に書かれた事をそのまま実行しようとし
また、社会にもその実践を求めたために
町の歴史を担う役割からは、
このように悲惨な形で、引きおろされてしまったのである。

チューリヒ最後の洗礼派が文字通り沈められてしまった後も
「語り継ぐもの」たちは少数派として残った。

その内、ある人々は
まだ宗教改革を導入していなかったベルン州の田舎
エメンタールなどに逃れることになる。

次回、エンメ川をめぐる谷間の地域(エメンタール)を散歩して
ほそぼそと、しかし粘り強く語り継がれる彼らの歴史の一端に
触れた6月の経験について、
次回から、少しずつ、
ご報告しようと思う。