2011年10月26日

M・ブーバー 『ハシディームの物語集』より 「宝物」

「宝物」

[ハシディームの賢者]ラビ・ブナムは、初めて自らのもとに来た若者に、[ポーランドは]クラクフのラビ・エケルの子、ラビ・アイジクの物語を聞かせることにしていた。

「厳しい困窮の年月(としつき)が続いても御神への信頼を揺るがせにしなかったある男に、夢でお告げがあった。その命じるところでは、かの街プラハの王城に通ずる橋梁に、宝を探し求めよとある。三度(みたび)同じ夢が繰り返されるに至ってはこのラビ・アイジク、一路プラハへ出立し歩きだした。さてもかの地に辿り着いたときに彼が見出したものは、昼夜橋を見張り立つ歩哨の姿であった。宝を堀り求めるなどかなわかない。しかし、それでも彼は朝毎橋を訪ねては、日の沈むまでそこをうろつくのである。ついに見張りの頭(かしら)たる人が声をかけ、この旅人の出身部族が判明するなり、馴れ馴れしくも尋ねてきた。『何かを探しているのかね。それとも、誰かを待っているのかね』。ラビ・アイジクが語るには、夢が自分を見知らぬ地へと導いたのだという。見張り頭は笑って言う。『ああ、なんと憐れな男だ、あんたという人は。夢なんかのために駆けずり回っているのか!おい、夢追い人や!それならわしも出かけなきゃならなかったわな。わしにも夢でお告げがあって、クラクフのあるユダヤ人―こいつはエケルの子アイジクと呼ばれるそうなんだがね―、そいつの部屋に赴いて、暖炉のもとに宝を掘り出してこいと言われたのだから。エケルの子!アイジクよ!ならば考えてみたってよいぞ。アイジクなりエケルなりとよばれるユダヤ人のいるところへはどこへでも赴いて、あらゆる家また家をこじ開けてまわろうか!』そう言って彼は再び笑うのだった。ラビ・アイジクはそこで深々と礼をするなり帰路につき、自らの家に宝物を掘り出して、そこに『レブ・アイジク、レブ・エケルズ・シュール[イディシュ語で、ラビ・アイジク、ラビ・エケルのシナゴーグないしユダヤ学校の意]』と名づけた祈りの家を建てたのだ。」

「この物語を覚えておきなさい」とラビ・ブナムは加えて言った。「そして受け入れなさい、この物語が君に告げることを。すなわち、君がこの世界のどこにも―この[ハシディームの『義』たる賢者]ツァディークのもとにも―見出せないものがあるということを。また、君が、それを見出しうるただ一つの場所が、なおあるということを」。

"der Schatz"   Die Erzährungen der Chassidim (Martin Buber)
マルティン・ブーバー『ハシディーム(敬虔者)の物語集』より
 (ドイツ語よりの私/試訳 Schu-hey, 26. Okt. 2011)


以上、先日、チューリヒのある牧師より頂いた自費出版の小冊子"Von Senfkörnern und Kürbissen-Kurz- und Kürzegeschichten aus Bibel und Literatur"(Edition Kämbel 2011)に納められたハシディームの物語から一編日本語にしてみました。しかし、すでに、邦訳は以下の著書に他の物語と一緒に挿入の形で出版されているそうです。

ブーバーに学ぶ―「他者」と本当にわかり合うための30章』(斎藤恵一著、日本教文社、2003年、312㌻)

さて、この物語をどう読むか。これは読者の自由です。
インターネット上で見つけたある方のブログでは、「一番大切なものは、自分の足元に隠れているが それは長い困難な旅をしないと見つけることはできない。」という教訓に受け止められていました。


わたしが手にした上の小冊子では、神の国に関する信仰上の譬えの文脈で編集されています。「家」を「神の国」と考えたということでしょう。


いずれにせよ、ユダヤの知恵は面白いですね。