2011年11月23日

GANDHI ガンジー



Heute habe ich einen DVD-Film gesehender "GANDHI" heißt.
Es gab verschiedene eindrucksvolle Szenen und nachdrückliche Wörter,
die tatsächlich aus der Geschichte M.Gandhis stammen.
Unter anderem beherzige ich folgende Botschaften Gandhis wieder aufs Neue.


"Auge um Auge führt nur dazudass die ganze Welt erblindet."
"Gerechtigkeit bleibt Gerechtigkeit!"

Was für Filme habt ihr/haben Sie neulich geschaut?
Gab es da treffende Bemerkungen?
Wenn jabitte stelle mal sie hier mal vor!

今日、『ガンジー』という映画のDVDを観ました。
M.ガンジーの実際の歴史に由来するたくさんの印象的なシーン、
心に残る言葉がありました。何よりガンジーの以下のメッセージを
改めて心に留めました。


「目には目を、では全世界を盲目にするだけだ」
「正義は正義に留まる/正義は正義のままである」

皆さんはどんな映画を最近観ましたか?
何か心を打つ名言はありましたか?
もしあれば、どうぞここに紹介してください!

出席教会20周年にむけて。

以下は、今出席しているU教会への手紙です。
実は、教会に届けるべきかどうかまだ迷っています。


親愛なるU教会のみなさまへ    
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教会20周年に向けて―回顧と展望へのうながし

二十周年、もうすぐ!
先日、スイス唯一の日本語礼拝を行うこの主の教会が、あと数年で二十周年を迎えることになると伺いました。嬉しいですね!この群れに会員として属さぬ私ですが、礼拝の交わりに加えられ特別な愛情を覚えるものとして、この際、主に在る二十年を回顧し、今後の展望を仰ぐ機会をもつと良いという思いと幻を与えられましたので、ここに皆様に「二十周年、何かしよう」との呼掛けのお手紙を認める次第です。

荒野の道の半ばで。さあ、何かしよう!何をしよう?
まずはこの状況を、出エジプト後のイスラエルに准えてみましょう。二十年というと、荒野の四十年のまさに半ば。そこにあったのは、試みと成長でした。「荒野の四十年」とは、律法=御言を本気で受け取った共同体的人格形成のとき。約束の地を仰ぎ、忍耐しつつ、唯一の神礼拝と主と共なる生活の在り方を、御言によって、若者が学校に学ぶように皆でじっくり学んだときでした。確かにまだ群れとして不安定で共同体形成の努力の日々は暫く続くのです。しかしまさに荒れ野にこそ、闇に輝く光のような輝きが見出せました。U(地名)の教会もそのような時にあると言えます。主の福音をスイスの地に日独語を用い広く宣べ伝えようとの志と幻により建てられた群れは、今、荒野の半ばで、少しヴィジョンの不透明さ、あるいは不一致という現実問題を前にしているように見えます。今はある意味で試みのときなのです。が、繰り返しますが、こんな日にこそ御言の幻は輝くもの。安心して皆で確認するときを持とうではありませんか?さあ、今からどのように一緒に生きていこう。教会は、具体的な御言の指針を必要としています。何かしよう!という思いを導くのはわたしたちの知恵でなく、御言の知恵以外にないことを私たちは知っています。その上で問うのです。主の教会に、今何ができるでしょう?

変わらない二本の柱
ところで、個人的に、T牧師からG宣教師への牧会伝道体制の移行期とも言うべき2009年以来、断片的に観察した印象でものをいう不十分をご容赦いただきたいのですが、私の目には、U教会は「御言葉に生きる祈りの礼拝共同体であり、宣教の群れ」でした。そこには二本の柱があったと思います。「礼拝の交わり」と「伝道」―古い伝統的な教会用語(ギリシャ語)を用いるならば、「コイノニア」と「ケリュグマ」です。きっと、回顧と展望の文脈で、私たちは、まずこの二つの意味を確認し、学ぶことになるでしょう。

「礼拝の交わり(コイノニア)」の課題
二十周年の機会に、きっと第一に取り組むことになるのは、「礼拝とは私たちにとって何だったか、今どうあって、今後どうなるのか」という問いです。月に二回行ってきた日本語・ドイツ語礼拝の意味、ドイツ語圏スイスで日本人とその家族を中心に集まることの意味などが、回顧とともに展望として問われることになるでしょう。たとえば、神と兄弟姉妹への信頼に満ちたこんな対話が起こるのです。―さあ、今後、どんな礼拝を一緒にまもっていこう。聖書に書いてある通り毎週でなくてもよいのかな。子供たちと部分的に一緒で、ときに別々に過ごしている日曜日の現状はどう考えよう。日・独語での説教の在り方はさらに良くできるのだろうか。説教の長さはどうか。内容はどうか。讃美はどうか。祈りはどうか。礼拝全体はこれでよいか。そもそも、日曜日、安息日とは何だろう。礼拝と生活との関係は?礼拝の建物は借り物のままでいくのか?―など。この対話から、御言が群れの中心であることの大切さが確認され、祈りが深まり、希望が生まれるでしょう。

「伝道(ケリュグマ)」の課題
同時に、御言をスイスにいる多くの人たちに二つの言語で持ち運ぶ伝道の業の実際も確認されるに違いありません。一つには家庭集会の在り方が問われるでしょうし、この場が教会に普段来ていない人にも開かれ、礼拝への道案内となってきたこれまでと、その道筋が必ずしも明白ではなくなってきた一部の現状を確認し、今後を方向付けることになるはずです。たとえば、こういう対話が起こるでしょう。―家庭集会は伝道の場なのか訓練の場なのか。これは牧師・宣教師の存在なしにできるのかできないのか。集会所は今後増やすべきか減らすべきか、それが可能か。他の日本人教会との協力関係も深めるとするなら、どのような形が良いのか。スイスの現地教会との関係を結ぶのか、否か。音楽会やバザーや、その他の催しを伝道のために企画した方がよいのか?―など。
伝道の志の確認、これもマタイの福音書最後に見られるような主の御言葉に従う群れにいつも必要なことです。

二つの柱から四つの柱を基として
さて、これまでこの教会が大切にしてきた二本の柱を基とした志を継承・更新したいとの願いが、この二十周年を機に確認されるはずだと申し上げました。しかし私たちは、この際、それでも不十分だという視点を、また持ちたいと考えます。すなわち、この二本に更に二本加えた、古代教会以来の教会建築の目印とも言ってよい「四本柱」による均整のとれた成熟した公同教会の形成への変革努力を、今後のヴィジョンとして持ちたいのです。「コイノニア」と「ケリュグマ」に加えるもの、それは「ディダケー」と「ディアコニア」。すなわち、「教育」と「奉仕」です。

「教育(ディダケー)」の課題
子供たちを教える日曜学校の在り方に加え、信仰者全員が学ぶ必要があるということは、代々(よよ)の教会が知っており、実践してきた事柄でした。歴史的な教会は、聖書と信仰告白・信条を中心に、教育のカリキュラムを整えていましたが、この教会では、どうでしょうか。最も広く用いられている聖書と祈りへの手引きは、おそらく「みことばの光」(小冊子)でしょう。これは、各家庭で毎日用いられることによって、一つの伝統に根ざした聖書理解を教え、私たちの日々の聖性を深めてくれます。では、さらに、他に教会全体として読むとよい本は、あるでしょうか。聖書をもっと体系的に学ぶことや、教会とその教えの歴史を学ぶためには、家庭以外でも学ぶ機会が必要でしょうが、今後はどのようにしていきましょうか。教派のさまざまな伝統が交差するわたしたちの教会にあって、狭隘でなくただしい教えを学ぶためには、何が必要でしょうか。教会修養会や他教会との合同の学びの会への参加とともに、定期的な会を持つ可能性はあるでしょうか。そのために、家庭集会の場はどんな役割を果たすことになるでしょうか。子供たちの教育にも問うべきことはありそうです。年齢ごとに相応しい手順を踏んで、聖書を教えるためには、どんな方法があるのでしょう。いつから始め何が目標となるでしょう。子供たちに教える者たちはどのように訓練されるでしょう。

「奉仕(ディアコニア)」の課題
病をえた兄弟姉妹、さまざまな理由で困難を覚える教会員がいるときに、教会がどのような支えとなることができるか、これは親しい交わりの中で、どのように行われてきたでしょうか。私は個人的に、祈りに根差した互いの助け合いがとても深い群れであると観察しています。ただし、教会が「奉仕(ディアコニア)」というとき、それは、伝統的に、自分たちの群れの枠を超えたものでありました。それはもちろん神奉仕(Gottesdienst=礼拝)に始まりますが、すでに「世」を視野において境なくひろい他者を隣人と見なしての奉仕をもいうものです。混沌に呻く社会との関わり、貧しい人々や、政治的社会的な偏りと不義に苦しんでいる人々、突然の災害にあった人々、飢え渇いている人々との関わりを、スイスの日本人教会はどのようにもっており、またこれからもつことができるでしょうか。経済的なことを考えれば、弱い群れだと言わざるを得ないわたしたちの群れでも、できることを探していくことは大切です。もちろん、時々にこのような課題への対応はこれまでも折によってなされてきました。しかし、それが一人ひとりの思いつきにではなく、教会的な業として行われる必要があるとすれば、この課題についての常なる対話が必要だと思います。まだまだ、「他者」を知る必要もあるでしょう。「奉仕」は他宗派、他宗教、無信仰、信仰否定の文脈でこそ、行われるものだからです。それぞれの得意分野・賜物がもっと広く用いられるような、教会員どおしと、教会外への奉仕の在り方を、教会の歴史に倣いつつ模索する必要がありそうです。

最後に、二十周年記念礼拝、記念会とその準備、ひとつの提案
以上の四本柱について深める数年間をこれから過ごしていきたいというのが、私の願いと提案であり、与えられた幻でした。その方法は、皆さまがそれぞれアイデアを出して、豊かさの中で多様に見出されていくべきものだと思いますが、今、この四点という方向性は一致して一緒に確認できるのではないでしょうか。その上で、これはあくまでもひとつの提案ですが、教会建設二十周年記念誌の作成、当日の記念礼拝と、記念集会を企画してみるのはいかがでしょうか。これまでの歩みがどうだったかを、たとえば以上の四点に沿って、展望と共に、今後に残る形でまとめておきたい。その歴史を経て、今、現状で最も豊かだと信じる礼拝(聖餐式の交わりと共に)を、新しい讃美と霊的な祈りと共にこの機会に一緒に祝いたい。伝道のために新しい道を開く機会となるような集会を礼拝後にもち、多くの近隣の人々を(日本人、スイス人、ドイツ人を中心として)そこに招きたい。教会員の訓練と、教会外への奉仕を模索して、もしかすると同じ時期に避けられないだろう新しい牧会体制への移行に繋がるものとしたい。これは、牧師・宣教師だけ、役員・世話人だけ、その他一部の熱心な人だけが志せば実現することではないと思います。教会全体が、礼拝者全員が、同じ夢を見て父なる神、主に聞き従うことなしに、荒野では生きられないのですから。私たちの大牧者主イエス・キリストが共にいてくださいます。聖霊の導きを求めて、ご一緒に祈りつつ新しい画期を迎えましょう!

出エジプト記24章、申命記29章を経て、今
エペソ人への手紙を読み、祈りつつ
2011年宗教改革記念日に
S.O.

母教会80周年によせて。

以下は、わたしがかつて働いていた教会の80周年をお祝いするために
記念誌に寄せて、先日認めた手紙です。

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確に理解するほどに、驚きも大きい」

80周年おめでとうございます。

この機会に、私は、A・ブレンデルという人が音楽家としての人生で学びとった上の言葉を
通して、K教会・T集会所伝道師として神と人とに仕えた日々を思い起しています。
思えばあの日々、この言葉は、二つの文脈で私の実感でした:

・ 第一に、礼拝・祈祷会の準備と実際から知った、神との格闘と憩いの文脈。
・ 第二に、みなさまとの出会いと交わり、小会での対話と協議、あるいは開拓伝道の
具体的な歩みの中で知った、人との間の緊張と信頼の文脈。

かの有名なピアニストがどのような意味でこう語ったかはここでは触れられません。
が、私にとっての意味を申し上げるならばこうです;「正確に理解する」とは、人格に直接
触れるような、イキイキとした出会いに基づく知、把握のこと。「驚き」とは、二重の意味で、
つまり、「つまづき」と「ときめき」の両面を伴って心と肝と魂を満たす思いのこと・・。

そうです、今思えば、私は、主を知れば知るほど、そして、みなさんを知れば知るほど、
躓いたり、ときめいたり、なんだか人間らしい自分であったのです。
具体的な事例はここで申し上げる必要はないでしょう。ただ、加えて申し上げたいことは、
私がその歩みの中で、結局「自分」という存在を知って、知るほどに「はっ」と驚く経験を
していたということです。

あの日々に知った、自分のあまりに大きな欠けや弱さも、
あの日々に持った、自分はこの言葉に立つのだという希望や確信も、
さらに「正確な理解」を求めるよう私の生涯を方向づけました。
そして今、その延長で、私は神と人とのイキイキとした触れあいを求めてスイスにおり、
聖書を読み、新鮮な躓き・ときめきの連続の只中で生活をしているのです。

K教会・T集会所での生きた三年間と、今に至る方向づけを与えてくださった
主なる神さまに心から感謝いたします。
そして、忍耐と希望を共有し、その道を一緒に過ごしてくださったみなさま、
離れてもなお祈りと支えをもって共に歩んでいてくださっているみなさまに
心から感謝をいたします。
私もK教会のこれからのいっそうイキイキとした歩みに、主がいつも共にいて
生きて働いてくださるよう、ご一緒に祈って参ります。


「わたしは息をしている。これこそ神を讃える十分な根拠だ。」

これは、私が属するチューリヒの教会合唱団のメンバーで、引退牧師にして
実践神学者であられるS先生が、詩編に関する著書の中で書いておられた
言葉です。私はこれを、スイスでの研究生活・信仰生活のふとした時々に
思い起します。

例えば、礼拝での静けき祈り・麗しき讃美の機会に思い出すほかは、
特に学びの途上で走り疲れたと感じ「はぁはぁ」と息切らせ立ちどまるときに。
自分たちや隣人の困難に「ふぅ」と深いため息をつくときに。
あるいは何かにいら立ち「あふあふ」と鼻息を荒くしてしまった直後の苦々しい
ひとときに・・・(ところで、ヘブライ語で鼻はアフと言いますが、
これは怒りという意味もあります。なるほど)。

そんな折々に、この言葉はしばしば私を導いて、新しい一週間を積極的に
始めさせ、新鮮な一歩を元気に踏み出させてくれます。

それは、創世記二章六節で主なる神がアダムを「生きる者」とするために
その鼻に吹きかけた「命の息」のイメージと相伴って、
創造主なる神さまに心を向けさせてくれる言葉です。
また、新しい言葉の力を湧き起こす御霊が風のように吹きつけて
イエスの弟子たちを満たした聖霊降臨のイメージに似て、
魂=息を吹き返すために何が必要かを思い出させてくれる言葉です。

イキイキとした生を求める歩みの中出会ったこの大切な言葉を、今、ここに、
一つの画期を迎えておられる貴教会にお贈りさせていただきたく存じます。
貴教会が、いよいよ新しい命の御言に息づき神の栄光を讃える主の群れとして、
与えられた伝道地で、与えられた工程を、
呼吸も新たに歩み抜いてゆかれることを願いつつ。

どうか、みなさま、これまでもそうであったように、主の十字架と復活の、
驚きに満ちた福音の命に生きる教会とその肢体なる一人一人として、
息弾む歩みを続けてください。
祈りを忘れず、歌を忘れず、主の栄光を表す群れとして、
夕に朝に御言に生き、神と人とにお仕えください。

→「キリストの言葉があなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい。
知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と讃歌と霊的な歌により、
感謝して心から神をほめたたえなさい。」コロサイ3:16

妻がみなさまによろしくと言っています。
東京生れの教会の娘も今年十一月には四歳です。
スイスでまた新たな空気を吸って、成長のよい機会を与えられています。
再会の、成長に驚いていただく日が楽しみです。