以下は、今出席しているU教会への手紙です。
実は、教会に届けるべきかどうかまだ迷っています。
親愛なるU教会のみなさまへ
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教会20周年に向けて―回顧と展望へのうながし
二十周年、もうすぐ!
先日、スイス唯一の日本語礼拝を行うこの主の教会が、あと数年で二十周年を迎えることになると伺いました。嬉しいですね!この群れに会員として属さぬ私ですが、礼拝の交わりに加えられ特別な愛情を覚えるものとして、この際、主に在る二十年を回顧し、今後の展望を仰ぐ機会をもつと良いという思いと幻を与えられましたので、ここに皆様に「二十周年、何かしよう」との呼掛けのお手紙を認める次第です。
荒野の道の半ばで。さあ、何かしよう!何をしよう?
まずはこの状況を、出エジプト後のイスラエルに准えてみましょう。二十年というと、荒野の四十年のまさに半ば。そこにあったのは、試みと成長でした。「荒野の四十年」とは、律法=御言を本気で受け取った共同体的人格形成のとき。約束の地を仰ぎ、忍耐しつつ、唯一の神礼拝と主と共なる生活の在り方を、御言によって、若者が学校に学ぶように皆でじっくり学んだときでした。確かにまだ群れとして不安定で共同体形成の努力の日々は暫く続くのです。しかしまさに荒れ野にこそ、闇に輝く光のような輝きが見出せました。U(地名)の教会もそのような時にあると言えます。主の福音をスイスの地に日独語を用い広く宣べ伝えようとの志と幻により建てられた群れは、今、荒野の半ばで、少しヴィジョンの不透明さ、あるいは不一致という現実問題を前にしているように見えます。今はある意味で試みのときなのです。が、繰り返しますが、こんな日にこそ御言の幻は輝くもの。安心して皆で確認するときを持とうではありませんか?さあ、今からどのように一緒に生きていこう。教会は、具体的な御言の指針を必要としています。何かしよう!という思いを導くのはわたしたちの知恵でなく、御言の知恵以外にないことを私たちは知っています。その上で問うのです。主の教会に、今何ができるでしょう?
変わらない二本の柱
ところで、個人的に、T牧師からG宣教師への牧会伝道体制の移行期とも言うべき2009年以来、断片的に観察した印象でものをいう不十分をご容赦いただきたいのですが、私の目には、U教会は「御言葉に生きる祈りの礼拝共同体であり、宣教の群れ」でした。そこには二本の柱があったと思います。「礼拝の交わり」と「伝道」―古い伝統的な教会用語(ギリシャ語)を用いるならば、「コイノニア」と「ケリュグマ」です。きっと、回顧と展望の文脈で、私たちは、まずこの二つの意味を確認し、学ぶことになるでしょう。
「礼拝の交わり(コイノニア)」の課題
二十周年の機会に、きっと第一に取り組むことになるのは、「礼拝とは私たちにとって何だったか、今どうあって、今後どうなるのか」という問いです。月に二回行ってきた日本語・ドイツ語礼拝の意味、ドイツ語圏スイスで日本人とその家族を中心に集まることの意味などが、回顧とともに展望として問われることになるでしょう。たとえば、神と兄弟姉妹への信頼に満ちたこんな対話が起こるのです。―さあ、今後、どんな礼拝を一緒にまもっていこう。聖書に書いてある通り毎週でなくてもよいのかな。子供たちと部分的に一緒で、ときに別々に過ごしている日曜日の現状はどう考えよう。日・独語での説教の在り方はさらに良くできるのだろうか。説教の長さはどうか。内容はどうか。讃美はどうか。祈りはどうか。礼拝全体はこれでよいか。そもそも、日曜日、安息日とは何だろう。礼拝と生活との関係は?礼拝の建物は借り物のままでいくのか?―など。この対話から、御言が群れの中心であることの大切さが確認され、祈りが深まり、希望が生まれるでしょう。
「伝道(ケリュグマ)」の課題
同時に、御言をスイスにいる多くの人たちに二つの言語で持ち運ぶ伝道の業の実際も確認されるに違いありません。一つには家庭集会の在り方が問われるでしょうし、この場が教会に普段来ていない人にも開かれ、礼拝への道案内となってきたこれまでと、その道筋が必ずしも明白ではなくなってきた一部の現状を確認し、今後を方向付けることになるはずです。たとえば、こういう対話が起こるでしょう。―家庭集会は伝道の場なのか訓練の場なのか。これは牧師・宣教師の存在なしにできるのかできないのか。集会所は今後増やすべきか減らすべきか、それが可能か。他の日本人教会との協力関係も深めるとするなら、どのような形が良いのか。スイスの現地教会との関係を結ぶのか、否か。音楽会やバザーや、その他の催しを伝道のために企画した方がよいのか?―など。
伝道の志の確認、これもマタイの福音書最後に見られるような主の御言葉に従う群れにいつも必要なことです。
二つの柱から四つの柱を基として
さて、これまでこの教会が大切にしてきた二本の柱を基とした志を継承・更新したいとの願いが、この二十周年を機に確認されるはずだと申し上げました。しかし私たちは、この際、それでも不十分だという視点を、また持ちたいと考えます。すなわち、この二本に更に二本加えた、古代教会以来の教会建築の目印とも言ってよい「四本柱」による均整のとれた成熟した公同教会の形成への変革努力を、今後のヴィジョンとして持ちたいのです。「コイノニア」と「ケリュグマ」に加えるもの、それは「ディダケー」と「ディアコニア」。すなわち、「教育」と「奉仕」です。
「教育(ディダケー)」の課題
子供たちを教える日曜学校の在り方に加え、信仰者全員が学ぶ必要があるということは、代々の教会が知っており、実践してきた事柄でした。歴史的な教会は、聖書と信仰告白・信条を中心に、教育のカリキュラムを整えていましたが、この教会では、どうでしょうか。最も広く用いられている聖書と祈りへの手引きは、おそらく「みことばの光」(小冊子)でしょう。これは、各家庭で毎日用いられることによって、一つの伝統に根ざした聖書理解を教え、私たちの日々の聖性を深めてくれます。では、さらに、他に教会全体として読むとよい本は、あるでしょうか。聖書をもっと体系的に学ぶことや、教会とその教えの歴史を学ぶためには、家庭以外でも学ぶ機会が必要でしょうが、今後はどのようにしていきましょうか。教派のさまざまな伝統が交差するわたしたちの教会にあって、狭隘でなくただしい教えを学ぶためには、何が必要でしょうか。教会修養会や他教会との合同の学びの会への参加とともに、定期的な会を持つ可能性はあるでしょうか。そのために、家庭集会の場はどんな役割を果たすことになるでしょうか。子供たちの教育にも問うべきことはありそうです。年齢ごとに相応しい手順を踏んで、聖書を教えるためには、どんな方法があるのでしょう。いつから始め、何が目標となるでしょう。子供たちに教える者たちはどのように訓練されるでしょう。
「奉仕(ディアコニア)」の課題
病をえた兄弟姉妹、さまざまな理由で困難を覚える教会員がいるときに、教会がどのような支えとなることができるか、これは親しい交わりの中で、どのように行われてきたでしょうか。私は個人的に、祈りに根差した互いの助け合いがとても深い群れであると観察しています。ただし、教会が「奉仕(ディアコニア)」というとき、それは、伝統的に、自分たちの群れの枠を超えたものでありました。それはもちろん神奉仕(Gottesdienst=礼拝)に始まりますが、すでに「世」を視野において境なくひろい他者を隣人と見なしての奉仕をもいうものです。混沌に呻く社会との関わり、貧しい人々や、政治的社会的な偏りと不義に苦しんでいる人々、突然の災害にあった人々、飢え渇いている人々との関わりを、スイスの日本人教会はどのようにもっており、またこれからもつことができるでしょうか。経済的なことを考えれば、弱い群れだと言わざるを得ないわたしたちの群れでも、できることを探していくことは大切です。もちろん、時々にこのような課題への対応はこれまでも折によってなされてきました。しかし、それが一人ひとりの思いつきにではなく、教会的な業として行われる必要があるとすれば、この課題についての常なる対話が必要だと思います。まだまだ、「他者」を知る必要もあるでしょう。「奉仕」は他宗派、他宗教、無信仰、信仰否定の文脈でこそ、行われるものだからです。それぞれの得意分野・賜物がもっと広く用いられるような、教会員どおしと、教会外への奉仕の在り方を、教会の歴史に倣いつつ模索する必要がありそうです。
最後に、二十周年記念礼拝、記念会とその準備、ひとつの提案
以上の四本柱について深める数年間をこれから過ごしていきたいというのが、私の願いと提案であり、与えられた幻でした。その方法は、皆さまがそれぞれアイデアを出して、豊かさの中で多様に見出されていくべきものだと思いますが、今、この四点という方向性は一致して一緒に確認できるのではないでしょうか。その上で、これはあくまでもひとつの提案ですが、教会建設二十周年記念誌の作成、当日の記念礼拝と、記念集会を企画してみるのはいかがでしょうか。これまでの歩みがどうだったかを、たとえば以上の四点に沿って、展望と共に、今後に残る形でまとめておきたい。その歴史を経て、今、現状で最も豊かだと信じる礼拝(聖餐式の交わりと共に)を、新しい讃美と霊的な祈りと共にこの機会に一緒に祝いたい。伝道のために新しい道を開く機会となるような集会を礼拝後にもち、多くの近隣の人々を(日本人、スイス人、ドイツ人を中心として)そこに招きたい。教会員の訓練と、教会外への奉仕を模索して、もしかすると同じ時期に避けられないだろう新しい牧会体制への移行に繋がるものとしたい。これは、牧師・宣教師だけ、役員・世話人だけ、その他一部の熱心な人だけが志せば実現することではないと思います。教会全体が、礼拝者全員が、同じ夢を見て父なる神、主に聞き従うことなしに、荒野では生きられないのですから。私たちの大牧者主イエス・キリストが共にいてくださいます。聖霊の導きを求めて、ご一緒に祈りつつ新しい画期を迎えましょう!
出エジプト記24章、申命記29章を経て、今
エペソ人への手紙を読み、祈りつつ
2011年宗教改革記念日に
S.O.
1 件のコメント:
追記)
なお、ここであげた四本柱は、
80周年を迎えた母教会の牧師が、
今後の展望のためにあげておられたものであり、
そこからわたし自身学んだものです。
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