詩編23編―(ヴェスターマン&関根正雄)*
1聖歌隊の指揮者によってあけぼののめじかの調にあわせてうたわせたダビデの歌
2わたしの神よ(エリー)、わたしの神よ(エリー)/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
3わたしの神よ(エローハイ)/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
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唐突に神への告発で始まる。ここで、神を呼び求めている者が神に対して、神が彼を捨て去ったと抗議を申し立てている。彼には、神との間の断絶の理由がわからない。2節aでは、神が「何故見捨てたのか」を神に問うている。2節bと三節では、神を昼も夜も呼び求めていたのに、返事がない、神は耳を傾けない、と言われている。いわばヨブに似た状況であって、神が御自身の側からなぜか人との関係を絶たれた、というところから問題が始まっている。詩人にとって神との交わりは余りに当然のことであるのに、今やそれが神の側から奪い取られた。これは丁度イエスの受難の時の状況であり、二節が十字架上のイエスの口から繰り返されたと福音書記者は記している。祈る者は、答えのない中で苦難に耐えなければならない。もし、この呻きと呼び求める言葉を神が聞いて答えてくださらなければ、この苦しみの状況は変えられない。
しかし、神が聞いてくださり、答えてくださりさえすれば、この苦しみの状況に転機が訪れるはずである。詩人は神に捨てられた状況の中で、「わたしの神よ、わたしの神よ(エリー、エリー)」となお神に縋っている。エリヤだとか、他の誰かとか、神以外の何者を呼ぶのではない。彼は、「何故」と言って神を訴えながら、一番深いところで神に服従しているのである。「わたしの神」が二回繰り返されていることは、旧約の語法としては珍しいことだと言える。神はなおも自分の神であり続ける。神に捨てられた神なきこの詩人の状況において、神は詩人に最も近いのである。
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4だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。
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そのことが全く顕かとなるのは22節後半からであるが、4-6節も今の状況下でのギリギリの信仰告白である。なお聖所は高く、わたしとは隔たっており、神御自身は、人の手の届かないところで、沈黙し続けたままでおられるが、神のいない場所などないということに詩人は縋るべき細い一糸を見出そうとするのである。イスラエルは、神を高くすることが、讃美することだと知っていたはずではないか。神は、ほめたたえの中で、高き方として崇められる存在であったではないか。
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5わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。
6助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
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そこで詩人は、父祖たちの信頼の事実を想起する。彼は、神の民の歴史に、神関係の根拠を捜し求める。「かつて」は、「依り頼んで」「依り頼んで」「依り頼んで」救われたものたちがあった。たしかに、「わたしたちの先祖はあなたに依頼み、依り頼んで、救われてきた。」ずっと昔のことである。しかし、これまでの嘆きと対照的なこの「救い」という主題は、現在の嘆きから抜け出す大切な一歩である。
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7わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
8わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
9「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
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「しかし、わたしは・・・」彼には、「依り頼んで」も神の助けはなお現実となっていないと思わざるをえない。そこに、苦しみの社会的な側面が展開される。すなわち、その苦しみとは、人から恥を受けることである。問題は、他の人々がこの詩人が神に見捨てられたと攻撃することから始まっている。彼らはこの詩人を侮る、つまり、神はもはや彼を助けず、心にもかけない、と。彼らは、これは神の正当な処罰であると考えている。神関係を顕在的には失っているその只中で嘲りを受けるこの詩人は、「わたしは虫けら、とても人とはいえない。」と、一人称の嘆きに戻っていかざるをえない。たしかに、人の前ばかりではなく、神の前に自分が失われ、人格性を喪失しているという罪の全体的な自覚を告白せざるをえないのである。(キリストの受けた嘲りを思う。彼は罪なきにも関わらず、十字架上でこの詩人の告白をまるで罪人のように祈られたのである。)
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10わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
11母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神(エリー)。
12わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
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しかし、詩人はもう一度、その信仰の根拠、神関係の根底を人間の側の意識や自覚にではなく、神との関係そのものに―具体的にはおそらく自分を産んだ(父)母の信仰を媒介にして―求めている。4-6節で先祖のことを想起していたとすれば、ここでは詩人はもっと身近な自分の父母、自覚以前の自分の過去を神の前に持ち出している。誕生以来、これまでずっと神は自分を守り続けてくれたではないか。神が存在しなかったならば、一瞬たりとも自分は存在することがないようなもの。神によって創造されたものとして、彼はふたたび、この詩編の冒頭にあった「わたしの神」との祈りを取り戻し、この祈りという希望に縋るのである。「わたしを遠く離れないでください。」この願いは、20節でも再び取り上げられることになる。嘆きの中の唯一の拠り所は、「わが神」が、「離れない」つまり、「共にいたもう」(インマヌエル)ということのみなのだ。
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13雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。
14餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
15わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。
16口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
17犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
18骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
19わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。
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13-19節では、嘆きが連続して出てくる。2-3節は、神に対する嘆き、7-9節は、一人称の嘆きであり、恥と言う悲しい目に遭うことを嘆いていた。再び15節で一人称の嘆き、16節で神に対する嘆きを見て取ることができる。「骨」「心」「口」、その人間全体を包括するような苦難そのものが語られ、それが、死ぬほどの苦しみであるといわれる。「あなたがわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」詩人は、命を司る神にこそ、この苦難を訴えねばならない。
他方、敵に対する嘆きが、13-14、17-19節に登場する。敵の存在自体が悲しみである。ここで、敵に対する嘆きとその他の嘆きが相互に密接に結びついている。もはや、誰が敵であり、何を敵対者が行ったのか、ここで嘆いている者の苦悩が何処にあるのか、実はよく分からない。ここで出てくる動物は、クラウスの言うように、病のデーモンだろうか。衣服を奪われている詩人は、死刑囚の場合を言っているのだろうか。(イエスの十字架がやはり思い出される。「骨が数えられるほどになった(裸の)からだ」を、「さらされ」、彼は衣服を奪われた。兵士はイエスの着物を分け、衣を自分のものとしようと「くじを引いた」。)あるいは、詩人が自分の体験を直接的に描いているというより、苦難の烈しさを種々のイメージで描いていると見るべきかもしれない。「獅子」「牡牛」「野牛」さまざまに襲い来る苦難!いずれにせよ、彼は多くの迫り来る苦難に打ちのめされているのである。
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20主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。
21わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。
22獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。
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神の力のみに縋る詩人によって、12節の願いがここで再び取り上げられなければならない。構造上注意すべきことに、12節では困難からの救出が願われているのに対して、20節では敵対者たちの面前での救いが願われている。敵対者たちは、再び野生動物として描かれている。
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23わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。24主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
25主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
26それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
27貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
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第二部では、23、25節(第一部と二部を結ぶ間接!)に嘆きの結びが拡大されて、嘆きが神へのほめたたえに変化する。今や、はっきりと救済が期待されている。ここで意図されているのは、ただ単純に喜びながら、応答することである。応答とは、まず「語り伝え」ること、物語ることである。そして、喜びを共にする人々と共に主に栄光を帰し、讃えの歌を歌うことである。彼の祈願は聞き届けられたのだから。ここで目立つ事は、(23、)26節にある「誓い」である。救われた者がその救いを集会の中で述べ、感謝の献げ物をささげ、27節からみると共同の食事(犠牲の食事)の席を設けることが、「誓い」内容のように見える。直接の祭儀的背景と解する必要はないが、自己の救いを他の人々にともに喜んで貰うことが詩人の大きな関心であることだけははっきり窺われる。そこには、貧しい者たちも招かれている。いや、貧しい者たちこそ、招かれている。「貧しい者」こそ、「主を畏れる者」「主を尋ね求める者」だからである。
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28地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。29王権は主にあり、主は国々を治められます。
30命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
31-32子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。
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しかし、詩人の神讃美は教団の中に閉じ込められるものではない。その苦難が底知れず深く、その体験した救いが限りなく深かったのに応じ、その讃美は限りなく広がり、「地の果てまで」「国々の民」にまで及び、陰府にある者にまで及ぶ。諸国の氏族に広げられた神の王的支配を見ることもできる。そしてその支配について、詩人は大胆にもその死を超えた先にまで及ぶとしている。そして、さらに最後には、時間の枠も超えられている。
「まことに彼はその御業を果たしたもうた」(32)、この最後の間投詞句一句で詩人は彼の体験したことの意味をもう一度明らかにしている。救いは神の御業なのであり、それゆえ讃美は彼にのみ帰せられるべきなのである。神は働かれた!彼はこのことを経験した。この詩編の最初の文章と最後の文章との間にある大きな落差に注目せよ。神が働かず、聞かず、ということを経験したからこそ、今や彼は大きな転換を経験することになったはずである。この変化を経験したからこそ、彼はそれについて語ったはずである。彼が物語らねばならないことは、更に増えたに違いない。というのは、神が働いていたからである。旧約聖書神学が語るのは、まさに神の働きについてであり、すなわち、神と人との間に既に起きたこと、今起きていること、そして将来起ることについてなのである。
この詩をイエスの救いと切り離してわれわれは読むことができない。ヴェスターマンは、キリストは22編の嘆きを御自分の嘆きとした、この地上を歩まれたイエスのつとめは、嘆きを讃美に変えることであった、という。われらの絶望を荷い、われらより低く神なきところに下られたイエスの救いをこの詩はわれわれに示す。
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* 引用/参考文献
関根正雄『詩篇註解(上)』教文館、1971年
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