Heidelberger Katechismus von 1563 |
〈問一〉
ハイデルベルク教理問答の全体の構造はどのようなものですか。
〈答〉 「聖書という山に登るための霊的な地図」とも形容される教理問答(Catechism、Katechismus)は、聖書全体の簡潔な要約であること(従って、聖書の「教えの基準」【ローマ6:17】であること)、またそこに示される神の言を繰り返し響かせ、教えるものであること(κατηχω;再び、響かせる)を目的として、教会史の中で、重要な折々にまとめられてきました。1562年、選帝侯フリードリヒ三世によりプファルツに召し出された4人(オレヴィアヌス、ウルジヌス他)により起草された「ハイデルベルク教理問答」は、まさにその目的に見合った教理問答として、現在に至るまで多くの教会で重んじられてきた教理問答の最高峰の一つです。起草者ウルジヌス自身の解説によれば、この教理問答の起草は、まず3つの目標を掲げることから始められました。以下の3つの目標です。
①教理教育のテキストとなること
②説教の基準となること
③教会の一致の為の信仰告白となること
この3つの目標は「ハイデルベルク教理問答」のあのすばらしい構造を生み出した特徴として、無視してはならない事柄であるでしょう。その特質;「感謝の手紙」(カルヴァン)として世界へ広がったこと、体系的な全体の構成、聖書的性格、キリスト中心的な特質、実践的な特質、そして、エキュメニカルな特質は、ここに根ざしているのです。
さて、ハイデルベルク教理問答の構造と、その内に示される神学を理解する際に、以下のような単純な図式化がきわめて有益です。
Ⅰ-慰めを必要とする-人間の悲惨(Elend)
〔3-11問〕
慰め(Trost Ⅱ-唯一の慰めの土台であるイエスキリストによる-人間の救い(Erlösung)
〔1-2問〕 〔12-85問〕
Ⅲ-慰めに導かれた-人間の感謝(Dankbarkeit)
〔86-129問〕
この図式に示されるように、また、先にも述べたように、この構成は、極めて体系的です。ハイデルベルク教理問答の新しく、同時に聖書の真理に根ざした、〈慰め〉という言葉がバックボーンとなって、3つの構造を作り出しているのです。さらに、明らかにこれはローマ書の構成に従った形をとっています。ここにも、聖書の神の言への信仰が表されているのです。カール・バルトは、次のように言っています。「慰めを主題とすることで、人間主題ではなく、神背景がある。」ハイデルベルク教理問答が示そうとしていることは、何よりも人間に対する神の恵みであります。神から与えられる人間の慰め-もちろんそれは、イエス・キリストの福音です-それこそ、私たちの教理、説教の基準として、そして、私たちが一致する信仰の中心であるとしてこの言葉がここに選ばれたのです。そして、もちろん、ルターが「律法から福音へ」、カルヴァンが「福音から律法へ」と言い表した人間の救いの構図が、ここにおいて一つとされている(罪の自覚を生じさせる律法から福音へ、そしてそこから救いの感謝としての律法の遵守へという構図)ことから分かるように、その恵みの神に慰められたものとしての私たち人間のたどる道筋も、この教理問答でははっきりと示されます。この教理問答が「聖書的経験主義」と称されるゆえんは、このように、罪の悲惨を知らされ、キリストによって慰めをうけ、感謝の内に神に栄光を表すキリスト者の姿が現実的な姿としてはっきりと描かれていることによるのでしょう。
〈第二問〉
いずれかの問を取り上げて、解説してください。
〈答〉 問21を取り上げます。それは、まことの信仰とは何であるかを語ることなしに、この教理問答で語られるただ一つの慰めを語ることは不可能だからです。
問21 まことの信仰とは何ですか。
答 それは、神がみ言葉によって、わたしたちに啓示して下さることを、全てそのとおりですと信じる確かな認識であるだけではなく、聖霊が福音によって、私たちの内に作り出してくださる心からの信頼です。 この信仰によって、他の人々に対してだけではなく、私に対しても、罪の赦しと、永遠の義と、祝福が全くの恵みから、ただキリストのみ業によって、神から差し出されていることを確信するのです。
ここで、「確かな認識」、「心からの信頼」という言葉によって、信仰について、2重の側面から語られていることに注意しなければなりません。それは、カルヴァンの定義した言葉を借りるならば、「客観的信仰(fides qua)」と「主観的信仰(fides
quae)」と言われる2つの側面です。(あるいは、ハイデルベルク教理問答がここで影響を受けているのは、メランヒトンの、認識・同意〔全てそのとおりですと信じること〕・信頼の三つの項目であるとの指摘を考慮するなら三重の定義であると言えるかもしれません。いずれにしても、)ここで明らかとされているのは、人間の信仰の不安や、不確かさの大いなる克服です。生まれながらに、つまり本質的に、神と隣人とを憎むように傾いている(問5)私たちの持つ信仰とは、それでは、やはり悪に傾いているのではないか、私たちがしばしば抱くそのような問を打ち砕く大いなる克服です。なぜ、そのような克服が可能なのでしょうか。それは、私たちの理性の働きにも心の動きにもよらず、ただ神のみ言葉による啓示によって、すなわち聖霊が働いてくださることによってのみ信仰を得るからであります。何よりも確かな、ゆるぎない堅固な神が聖霊によって、私たちに信仰を与えてくださること、神を知っている、いや、むしろ神から知られている【ガラ4:9】ということを聖霊によって示されていること、ここで示されているのはそのような大いなる慰めなのです。
聖霊の働きは、理性にも感情にも、知にも心にも、つまり、客観的信仰にも、主観的信仰にも働きます。理性では信じていても心は信頼していないというような信仰、あるいは逆に心では信じていても理性は認識していないというような信仰はまことの信仰とは言えません。聖霊の働きはそのどちらにも及ぶのですから、私たちは、まことの信仰を確かにアーメンとの告白のうちに〈霊的に〉認識し、そして、心から信頼することができるのです。
まことの信仰は、キリストのみ業によってのみ、永遠の義と、祝福が差し出されていることを確信します。キリストのみ業によって、聖霊を通して与えられた信仰が、神のみに救いがあることを確信する。この信仰を持ちうるようにされ、そのことを知らされた私たちは、その慰めを感謝せずにはおれないでしょう。
神学総論 Schu-hey 神学校時代(2003/2/22)
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