始めの二年間は、単身留学だった。
チューリヒ州第二の町ウィンタートゥールと
東京の下町小岩を結んだのは、ネット通信スカイプだ。
一歳半だった娘は、桃色の金平糖を一粒小さな掌にのせ、
ラップトップの父親に差出した。
「はい、こんふぇと、どうじょ。」
ああ、心は揺れるが応えられない。
「届かないね。今度スイスに送って。」
明るく手を振った私の笑顔は、どこかぎこちなかったに違いない。
二カ月後、船旅を経てやってきた大きな段ボール箱に、
上品な藍色のリボンのついた小さな包みを見つけた。
嬉しい。
添えられた妻の筆跡。
「はい、こんぺいとう、どうぞ。R(娘)より」
今度は私の方が、カメラに向かい桃色の一粒をのせた掌を伸ばす。
「届いたよ、ありがとう。」
すると幼子は困ったことに、涎のついた手でパソコン画面を濡らし始めた。
「コムペート、くださいな!」
少しぎこちないが日本語が上手になってきた。
「届かないね。今度一緒に食べようよ。」
私はまた明るく、目の前の遠い娘に呼びかけた。
我が子の手から離れてスイスまで、九千キロは旅をしてきた愛しい金平糖、独り寂しく舐めるものでもないと思い、ルームメイトのスイス人学生Mとお茶をすることにした。
「これ、何?」
「金平糖だよ。」
「コンフェート?」
お、娘と似た発音、なんだか可笑しく笑みがこぼれた。彼曰く、
「発音がドイツ語のコンフェッティみたい」
そうなのか。
欧州では、カーニヴァルなどの祭や、結婚のような祝いの日に、
Mが言うには、かつては紙の代りにボンボン(小さな飴玉)を投げる習慣もあったとか。
「え?」
私たちは色鮮やかな日本のボンボンに目を見やり、それから互いの顔を見る。
「これは、金平糖の歴史を調べないとね!」
―金平糖:語源はポルトガル語のコンフェイト。日本伝来の時期は諸説あるが、
一五五〇年にカステラ等と共に南蛮菓子として伝えられた―
成程既にウィキペディアに、金平糖を巡る日欧の古い繋がりが明らかだ。
「もっと調べよう。」
―宣教師L・フロイスの献呈品としてのコンフェイトを、かの甘党織田信長が気入り度々取り寄せた。製造法詳しくは伝わらず、最初職人は胡麻を核とし試行錯誤したらしい。そうしてできた「南蛮菓子金平糖」は、江戸時代に至り均整の取れた二十数個の角を持つ「和菓子」へ発展した―
調べるほどに欧州と日本が近づき、小さな砂糖菓子を巡る世界規模の物語が広がる。
「面白い!」
物の歴史には、人の物語があるのだ。
・・・・・
「はいパピー、こんぺいとう、ビッテ!」
三歳半になる娘が私の鼻先に手を伸ばす。
かなりぎこちなく、スイス・ドイツ語が混じり始めた。
そう、今や幼子は、ラップトップに向かい執筆中の
父親(わたし)のこの膝の上にいる。
父親(わたし)のこの膝の上にいる。
手渡された小さな愛しい桃色の金平糖。
長い時、遠い距離を超えてここまでやって来たのだね。
「ダンケ、うん甘い、本当においしいね!」
*画像は全てWikipediaより
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