2012年4月19日

エッセイ 「桃色の金平糖」


始めの二年間は、単身留学だった。

チューリヒ州第二の町ウィンタートゥールと
東京の下町小岩を結んだのは、ネット通信スカイプだ。
一歳半だった娘は、桃色の金平糖を一粒小さな掌にのせ、
ラップトップの父親に差出した。

「はい、こんふぇと、どうじょ。」





ああ、心は揺れるが応えられない。




「届かないね。今度スイスに送って。」




明るく手を振った私の笑顔は、どこかぎこちなかったに違いない。




二カ月後、船旅を経てやってきた大きな段ボール箱に、

上品な藍色のリボンのついた小さな包みを見つけた。

嬉しい。

添えられた妻の筆跡。

「はい、こんぺいとう、どうぞ。R(娘)より」

今度は私の方が、カメラに向かい桃色の一粒をのせた掌を伸ばす。

「届いたよ、ありがとう。」

すると幼子は困ったことに、涎のついた手でパソコン画面を濡らし始めた。

「コムペート、くださいな!」

少しぎこちないが日本語が上手になってきた。

「届かないね。今度一緒に食べようよ。」

私はまた明るく、目の前の遠い娘に呼びかけた。

我が子の手から離れてスイスまで、九千キロは旅をしてきた愛しい金平糖、独り寂しく舐めるものでもないと思い、ルームメイトのスイス人学生Mとお茶をすることにした。

「これ、何?」

「金平糖だよ。」

コンフェート?」

お、娘と似た発音、なんだか可笑しく笑みがこぼれた。彼曰く、

「発音がドイツ語のコンフェッティみたい」

そうなのか。

欧州では、カーニヴァルなどの祭や、結婚のような祝いの日に、
窓や道から放り投げる色とりどりの紙吹雪をコンフェッティというらしい。


Toulouse-Lautrec, Henri de 
Confetti, 
1894
Mが言うには、かつては紙の代りにボンボン(小さな飴玉)を投げる習慣もあったとか。

「え?」

私たちは色鮮やかな日本のボンボンに目を見やり、それから互いの顔を見る。

「これは、金平糖の歴史を調べないとね!」

―金平糖:語源はポルトガル語のコンフェイト。日本伝来の時期は諸説あるが、
一五五〇年にカステラ等と共に南蛮菓子として伝えられた―

成程既にウィキペディアに、金平糖を巡る日欧の古い繋がりが明らかだ。

「もっと調べよう。」

―宣教師L・フロイスの献呈品としてのコンフェイトを、かの甘党織田信長が気入り度々取り寄せた。製造法詳しくは伝わらず、最初職人は胡麻を核とし試行錯誤したらしい。そうしてできた「南蛮菓子金平糖」は、江戸時代に至り均整の取れた二十数個の角を持つ「和菓子」へ発展した―

Luís Fróis と信長

調べるほどに欧州と日本が近づき、小さな砂糖菓子を巡る世界規模の物語が広がる。

「面白い!」

物の歴史には、人の物語があるのだ。
 
・・・・・


「はいパピー、こんぺいとう、ビッテ!」

三歳半になる娘が私の鼻先に手を伸ばす。
かなりぎこちなく、スイス・ドイツ語が混じり始めた。

そう、今や幼子は、ラップトップに向かい執筆中の
父親(わたし)のこの膝の上にいる。

手渡された小さな愛しい桃色の金平糖。
長い時、遠い距離を超えてここまでやって来たのだね。

「ダンケ、うん甘い、本当においしいね!」




*画像は全てWikipediaより

0 件のコメント: