2012年4月21日

いもうとの結婚式によせて


Naomi entreating Ruth and Orpah
to return to the land of Moab by 
William Blake, 1795
「…あなたの神はわたしの神
…ただ死のみが、わたしたちを別つのです。」 

今月末、わたしの妹が結婚します。
留学中で帰国できないわたしですが、
あたらしい歩みを始める二人に、
心からの思いを込めて、祈りを込めて、
言葉のプレゼントを届けたいと思いました。

そこで、フラウミュンスター教会の
敬愛するN・P牧師にお願いし、
先日スイスの友人の結婚式で語られ、
感銘をうけた説教原稿をいただき、
わたしが翻訳して新婦と新郎に
お贈りするための許可を得ました。
メッセージの核の部分は、二人にも
相応しいと思ったからです。

既に同教会ホームページ(以下にアドレス)
には、日本語の説教も含めてのせていただいていますが、妹には、このページを通して
お祝いの言葉を、説教と共に、
お届けしたいと思います。



親愛なるC・O、敬愛するT・H

おめでとう!お二人のご結婚の報せを心から喜んでいます。

富めるときも、病めるときも、死があなたたちを別つまで
ふたりが主の御前に、深い信頼と愛情とをもって、
ともに笑い、ともに涙し、生きてゆかれますように。

心から祈っています。

2012年4月30日 兄より



ルツ記116節以下*


…わたしはあなたの行く所へ行き、あなたの宿る所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。あなたの死ぬ所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。主がいつでもわたしに御心のままになしてくださるように。ただ死のみが、わたしたちを別つのです。
*口語訳とチューリヒ訳に基づいたもの

親愛なるA・H、敬愛する、S・D
そして結婚式に集まった愛するみなさん

「あなたの行くところであれば、そこへわたしも行きます」…いかにも美しく、婚礼の場になんとも相応しい聖句ではありませんか!「…そしてあなたが宿るところ、そこにわたしも宿ります…」これも、結婚の日に合うと言ってよいでしょう。いや何よりも、お二人は今、[最後の句に共感して]こう考えておられるかもしれません:ああ、先生は、思いつきの聖書箇所を選ぶよりは、古典的に結婚式説教に相応しいとされてきた「ただ死だけがわたしたちを別つ」という有名な言葉を改めてわたしたちにも選んでくださったのだ、と。(一字一句の表現には幾らか異なることがあったとしても、この言葉と同じ意味内容をもつ約束を、二人も既にお互いに交わし合っていたことでしょうから、その共感は当然です!)しかし、注意していただきたいことがあります。それは、この聖句が、ひろく多彩な意味を持ち、驚くほどに複合的なものなので、軽やかな結婚の喜びをただ単純に表すものにはとどまらない、ということです。

まず何よりわたしたちにとって驚きなのは、この言葉が結婚ではなく、飢饉の困窮の文脈で語られているということです。さらに意外なことには、ここではこの言葉が、女性によって、女性に対して(!)語られています。

敬愛するA・H、親愛なるS・D、

そう、これは、困難な時代の、信頼に満ちた連帯についての、心揺さぶる物語なのです
―その連帯は、第一に女性たちのものでしたが、聖句は、心通わせ、共に生き、共に歩もうとするさまざまな民、さまざまな信条の人々を視野においてもいますー。そこで、わたしは、こう考えたのです。このことがお二人の心にとまるなら、共に歩むあなたたちの道の本質的な要素として受け止められるに違いない、と。

ナオミの物語の経緯をお話しましょう。ナオミは、飢饉から逃れるために、夫エリメレクと二人の息子と共に、ベツレヘムから異邦のモアブに移りました。けれども、まもなく夫は死に、ルツとオルファというモアブ人女性と結婚していた二人の息子もそれぞれ、新婚のよろこびも束の間、ともに世を去ってしまいます。
―こうしてナオミは、二人の義理の娘たちとともに残されてしまいました。彼女は、ベツレヘムで再び食糧を得ることができるようになったらしいと聞き、帰郷する手はずを整えます。
―それから、イスラエルへの帰郷の途上、ナオミは、自分についてきた二人のモアブ人の娘たちに、自らの家族のもとへ帰るようにと説得します。「イスラエルにはあなたたちの未来はありませんよ!誰がこの地であなたたちをめとってくれるでしょう?わたしはもう年が年だから、あなたたちのために息子を出産することなどかないません」(―いや万が一、彼女がなお出産のできる年だったとして、生まれたての子が18年後に結婚式の場に立つまで待つというのは、いかにも奇跡のような考えだといわなければなりません…―)。
―かくしてオルファは、涙ながらに姑のナオミに口づけし、モアブへの帰路につきました。ところが、一方のルツはナオミのもとに留まると言ってきかないものですから、ナオミは強いて勧めて言います。「あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへと帰って行きました。あなたも同じように引き返しなさい」。そこで、ルツが言うのが、あの言葉:

「あなたを見捨てよなどと、わたしに強いないでください。
わたしはあなたの行く所へ行き、あなたの宿る所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。
あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。
主がいつでもわたしに御心のままになしてくださるように。ただ死のみが、わたしたちを別つのです。」

なんと心揺さぶる連帯でしょうか―困難極まるときに、なんと愛の深く、心の堅実なことでしょう!二人は聖書的な意味における愛によって向き合っています。深みにおいて通じ、冷めた感情にも激情にも、情緒的な感傷にも陥らず、かえってこれを乗り超えています。(たしかに、後ほどナオミはその賢い助言によって、ルツがボアズという男性を―あらゆる予想に反して―夫として見出すことができるよう取り計らうことになるのです―ハッピー・エンドといったところです―、その意味では、やはりこの聖書箇所はなお幾許か、古典的な結婚との関連もあると言えなくはありませんが・・。)

さて以上のことを踏まえ、わたしは、聖書が今、あなたたちお二人に[以下の2点を確認するよう]語りかけていると考えたのです。すなわち第一に、あなたたち自身、実際に異邦で出逢って愛することを覚えたということ。あなたたち二人は、まさにモアブの地というのではありませんでしたが、そこからそれほど離れてもいない近東、トルコ、ペルシャへの旅を共にしたことがきっかけで、互いにそれぞれの人柄、生き方に魅かれるようになりました。人と人とが異なるということは、国が異なるということと同様、実はあなたたちをおびやかすどころか、かえって一つに結びつけるものだと、あなたたちはそのとき知ったのです。―愛は(そしてまた神の愛は)境界や限界に基づいて生きるものではない―これこそ、この物語の脈絡です!

さて、ナオミとモアブ人の義娘(むすめ)ルツのこの物語は、エズラとネヘミアの時代に語られたものです―すなわち、それは、バビロン捕囚後、自らのアイデンティティをめぐる懸念が生じたために、イスラエル人以外の女性との結婚が禁じられた時代です。

注意深く受け止めてください。モアブ人(!)女性ルツによる、次のような心動かす信頼、愛、連帯の言葉は、他でもない、この困窮の時代に語られたものなのです。

「わたしは…あなたの宿る所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。

親愛なるA・H、ここで、聖書があなたに呼び掛ける第二の点を確認しましょう。これはわたしがあなたから感銘を受けてきたことでもあります―すなわち、あなたのその率直さ、真面目さについてです。あなたはその開かれてかつ誠実な性格によって、たとえば他の諸宗教との境界線を単純に引いてしまうことをせず、むしろ対話を求め、他者を理解しようと努めてきました。―しかもその求めと努めが、なんでも適当に吸い込む内的な真空(バキューム)状態によってではなく、キリストを信じる深いひとつの信仰に基づいて出てくるのです。

親愛なるS・D、わたしはあなたからも同じように感銘を受けてきました。数学者にして神学徒であるあなたの、問いに取り組む情熱と、実存に向き合う熱情についてです。たとえば慣習だからという答えが、あなたを満足させることは決してありません。

「…わたしはあなたの行く所へ行き、あなたの宿る所に宿ります。」

あなたたちに、あなたたちの結婚生活に、あなたたちのこれからの共なる歩みに、なんとも相応しく、すばらしい聖書の言葉ではありませんか。

もちろん、S・Dはイスラエル人ではなく、A・Hはモアブ人ではありません。しかし、この聖書の語りかけをきっかけに、宗教上別の背景をもつ家庭に由来するあなたたち二人が、実際どのように異なる感性と、どのように違った考え方や着想を持っているかについて、ここで一緒に触れることは、すばらしいことです。歩みを共にし行こうとすれば、その道にあっては、求めが生じ、時には[次の言葉を巡って、]生産的な格闘(ファイト)をしなければならないこともきっとあるでしょう。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」。そうです、実際のところあなたたち二人だけではない、二つの家[]もまた、ここで共に寄り添おうとしているのです。もちろん、異なる二通りの神がいるというのではありません。けれども二つの個が、神の前にあるいは神と共に、実存をかけて向き合うのです。そこには、従って、細やかに心身を尽くす生が待っています。そのようにしてあなたたちはその道を行くのです。

ナオミが、ベツレヘムの出身であり、その地にルツが共に帰って行くということは、決して偶然のことではありません。なぜならこれは、ひとつの神の物語(れきし)、真理と連帯と愛の歴史(ものがたり)として語られていることだからです。ベツレヘム!そこにはイエスの物語があります。それは、あなたたちに大いなる深みをもって語りかけ、あなたたちがすでに知っており、またそれに生きているかの歴史です。愛は、all you need is love(愛だけが君に必要な全て)と歌われる以上のもの。このあなたたちの愛は、ベツレヘムに―イエスがお生まれになったあの地に!―深い根を張っているものなのです。ルツがイエスの系統樹に(ダビデの曾祖母として)見出されるのは、まさにこのためだったのです。

あなたたちの愛は、ベツレヘムにその(ルーツ)を持っています。というのも、神の愛をその深みにおいて説かれたまことの人、イエスがそこにお生まれになり、その愛が事実生きた場所であるからです。この人は、ご存知でした。愛には、担うべきもの、耐え忍ぶべきものが伴い、真理が伴い、さらには、そう、犠牲をも伴わなければならないということを。―その生命が捧げられることによって、もっと大きな生命が可能になるような、あの犠牲です。あなたの神はわたしの神」―神が、人を、ただ一人だけ御もとにおき、重んじ、愛するなどということはありえません。It takes at least two..少なくとも、二人…(わたしの名において、二人、または三人が集められるところ!)です。ですから、あなたたちにあっても、一緒であるときに、このことはもっとよく果たされるでしょう。

親愛なるS・D、敬愛するA・H、あなたたちの結婚生活のために、なんと美しいプランが与えられていることでしょう。それは、境ではなく連帯と寛容の歩みです―しかもあたりさわりのない、無難な(それぞれの流儀(ファッション)に従った)寛容というのでは決してなく、愛から出て愛を見出す開かれた実直さの道…また、ただなんとなく従う家族のならわしによってというのでもなく、富める時も、病める時も変わらない深い熱情と真実によって歩む道です。そして、もう二人は受け止めておられるでしょうが、おそらくは最初にだれもが抱く戸惑いやためらいを共に超えて歩みゆく道です。ナオミとルツ、そしてボアズの歴史は、あなたたちの物語です。なぜなら、そこでは、自立した、大胆な人間、誠実でありかつファイトのある人間について語られているからです。そして、心の最も深いところで、神の導きにどっぷり信頼しており、そのために多くの人々の祝福[の基]となるような人について、語られているからです。

そうです、ここで感謝を申し上げることがゆるされるでしょうか。あなたたちは、すでに、多くの人々の祝福となっています。すでに、このフラウミュンスターにおいて、あなたたちは祝福の源となってきたのです。あなたたちの愛は他の人々に光のように放たれ、この厳かで古いフラウミュンスター教会にあって、あなたたちによって新しいことが始まりました。J(ユング)フラウミュンスターの若い集まりです。そこで、あなたたちは他の若い人たちと心を通わせてきました。あなたたちの結婚生活が、そのような輝きを、さらに多く放つものとなりますように。神の祝福があなたたちに増し加えられることによって、あなたたちがいよいよ他の人々の祝福となっていきますように…。

アーメン。

2012年3月24日フラウミュンスター教会 
説教 N・P牧師
訳  Schu-hey


ダウンロードは教会公式HPよりどうぞ

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