The title page of the First Folio of William Shakespeare's plays. |
『間違いの喜劇』は、〈観る〉作品である。この作品を突き詰めていくほどに、シェイクスピアが、何より、劇場に足を運んだ観客を楽しませることを第一としてこの劇を書いたのだということが良くわかる。コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge)や他の多くの批評家が述べたように、『間違いの喜劇』は、〈笑い〉を何よりの目的とした〈笑劇〉なのである。
さて、〈笑い〉を作り出すには何が必要だろうか。綿密に計算されたプロットであろうか、それとも、巧みな台詞回し、あるいは、道化の登場であろうか。中には、映画『恋に落ちたシェイクスピア』の中でヘンズローがこだわった〔恋と犬の一噛み〕だと言う人もあるかもしれない。確かに、それらはシェイクスピアの得意とするところであり、多くの彼の作品にはそれらが巧みに用いられ、観る者を満足させてくれるのである。しかし、この、『間違いの喜劇』を〈喜劇〉としてよりもむしろ〈笑劇〉としての色で覆っている大枠には、もっと単純で、純粋な〈笑い〉の要素があると筆者は考えるのである。言い方を変えるなら、その、単純さ、純粋さこそこの〈笑い〉の種であると思うのである。
まず、単純さという点で言うならば、シェイクスピアは明らかに三一致の法則を意識してこの劇を書いている。すなわち、場所はエフェサスの町、時間は一日、そして筋は二組の双子の兄弟探しという三つの点が、単純化されているのである。筋については、第一幕一場を見ると、イージオンの裁判の行方が副筋のように(この場では、まるでこれが主筋のように)、印象的に展開するけれども、第一幕ニ場以降、第五幕一場までイージオンが登場しないということを考えると、これが、本筋の単純さに直接影響を与えるものではないことがわかる。むしろ、イージオンに対するこの場での公爵の次の台詞を見れば、この三一致の法則の単純な印象を観客に植え付けるのにこの場が大きな役割を負うていることがわかる。
Therefore, merchant, I’ll
limit thee this day
To seek thy health by
beneficial help.
Try all the friends thou
hast in Ephesus;
Beg thou or borrow to make
up the sum,
And live, If no, then
thou art doomed to die.
(1.1.150-154)
そこでな、商人、今日一日を限って、
そなたに存命の援助を求める猶予を与えよう。
エフェサスに居住する友人知人を訪ね、
もらうなり借りるなりして不足の金額を埋め合わせ、
死を免れるがいい、生きる道はそれしかない。
この五行によって明らかに示された限定、特に日にちの限定は、観る物にこの劇の解決の時期の目安、物差しを与えてくれる。それゆえ観客は、劇の本論が二組の双子の登場により比較的複雑に思えるようなときにも、余裕を持って〈笑い〉に専念することができるのである。
さて、今話題にした単純さ、純粋さという点で、次に考えたいのは、観客が単純に笑える、そして、純粋に喜べるように、その心理をシェイクスピアが誘導しているという点である。そのことを解く鍵も、やはり、第一幕一場にある。第一幕で大きくクローズアップされたイメージは何だったであろうか。それは、イージオンの不幸である。難破し、息子の一人を妻と共に失った彼の、人生の行く末が、エフェサスでの裁き、死刑の宣告であったというこの上もない不幸の物語は、観客を共感の渦に巻き込む。その渦のなかに巻き込まれた観客は、すでに、最後の解決を期待する方向に、一直線に気持ちを向けさせられるのである。その悲劇性の大きさは、喜劇の終わり、つまりハッピーエンドの喜びの大きさに比例する。その心理の当然の流れ、いわば、単純な、純粋な流れを、シェイクスピアは良く承知していたのである。
Poster for a 1879 production on Broadway, featuring Stuart Robson and William Crane |
(2001年@Schu-hey 文学徒時代)
*写真はWikipediaより
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