2012年4月10日

2009年 ラジオのインタヴュー2 神学を学ぶ理由(わけ)


2.    神学を勉強するようになった理由を教えてください。


神学を本格的に勉強するようになったきっかけは、牧師になるために神学校に入学したことです。大学での四年間は文学部でシェークスピアを読んでいました。かつて(1916年)、アメリカ南部バプテスト連盟のミッションと並行して立てられたこの九州の大学には、神学部もあったのですが、わたしは、大学入学時には、神学を専門的に学ぶことは考えていませんでした。子供のころに、少し牧師の仕事にあこがれたことはありました。何人かの良い牧師と出会う機会があったからです。でも、それは、サッカー選手とか、学校の先生とか、多くの他の夢と共存していた古いあこがれにすぎず、大学生の私はそんなこと忘れていました。しかし、将来歩むべき道について悩んでいたある日、大学の掲示板に、詩篇90篇が掲げてあるのを見たことがきっかけで、わたしは、これまでの歩みと牧師として歩む将来の道に、一筋の一貫性を見出すことになったのです。その時、詩篇90篇の、特に12節がこころに残りました。「生涯の日を正しく数えることを教えてください、知恵ある心を得ることができますように(Unsere Tage zu zählen, lehre uns, damit wir ein weises Herz gewinnen.)」。最初、私は、「生涯の日を正しく数える」とは、「人生が短いということを知る」という意味だと思いました。この言葉と、かつて聞いた伯父の言葉が重なったからです。本の虫である伯父の家は、本だらけです。当時55歳の伯父は、彼がスコットランドに留学していたおり、大学の夏休みを利用して訪ねていた私にこう言ったのです。「Schu-hey、今僕が一カ月に十冊くらいのペースで本を読み、僕が80歳まで生きると仮定して、これから何冊の本が読めるか計算してみたんだ。愕然としたよ。読むべき本はたくさんあるのに、読める本はあまりにも少ないんだ!」どんな生き方をしても、人生は短いのです。「人生の年月は七十年ほどのものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間にときは過ぎ、わたしたちは飛び去ります」と書いてあるとおりです。そのはかない人生を、これからの自分の努力で何か意味あるものにすることができるだろうか。そう思うと心もとない気がします。そこで、私は「主の御前では、一日は千年のようで、千年は一日」だというパウロの詩篇解釈を思い出しました。そして、「生涯の日を正しく数える」ということは、つまり、この日々が自分のものではないということを知ることだと思うに至りました。短い生涯だが、永遠者の御業に仕える日々を過ごそう。具体的に教会に仕える方法は、スイスほどではありませんが、日本にもいくつかの選択肢があります。しかし、牧師のいない教会がどんどん増え続けているという、少数派である日本の教会の現状を見て、わたしは、神学的な基礎を学んだ牧師が今日本でなお一層必要だと思い、神学校に行くことにしました。「神学なくして教会はたたない」と神学校で教わりました。わたしが、神学を勉強し続けている理由は、聖書原典の泉から豊かな水をくみ出し、イスラエルと教会の歴史に学んで、今の日本の文脈にあって、人々を潤して行く仕事に微力でも仕えたいと思うからです。

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