2012年4月10日

2009年 ラジオのインタヴュー1 クリスチャンになった理由(わけ)

私が留学のためスイスにやって来た2009年、
すぐにあるキリスト教系ラジオのインタヴューを受けました。
当時はドイツ語もままならず、完全原稿で挑んだのですが、
しかも、日本語原稿を用意し、それをドイツ語にしてのぞみました。
数年ぶりに見直して、いろいろ考えが変わった面もありますが、
ここに記録しておきたいと思いました。

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1.    あなたは、神道および仏教の国日本からいらっしゃいました。クリスチャンになられた経緯を教えてください。


わたしがクリスチャンである最大の理由として、神の導きと召しという信仰的な言葉を用いないのであれば、両親が教会の長老であり、伯父が牧師であるというわたしの家庭環境を挙げなければなりません。私の両親は、すでに牧師であった私の伯父との議論と対話の結果、三十代になって洗礼を受けた人です。伯父が働いていたのは、ステンドグラスも十字架のしるしもない、小さな、まるで初代教会のような文字通りの田舎の「家の教会」あるいは「ぼろアパートの一室」でした。父は、そこでの礼拝に初めて出席した時、すでに持っていたきらびやかな西洋風の教会の印象を決定的に覆されたといいます。きらびやかでもなければ、荘厳というのでもないではないか。何にもないところにほそぼそと人が集まっている。なぜだろう?そして、その問いの答えを求めて礼拝に通い続けるうちに一つの結論に至りました。ああ、ここには、言葉がある。いや、言葉しかない。それが、人々の集まる理由なのだ。父は母と小さな三人の(かわいい)子供を連れて、今度は言葉の認識を求めて教会に通うようになりました。そうして、わたしは、伯父の牧会する教会で、言葉にとらえられた両親の受洗の機会に、共に小児洗礼を受け、それ以来毎週礼拝に通うことになったのです。最初は両親に連れられ、次第に、自発的に。そのうち、日曜の礼拝に加え、平日の祈りの会にも出席するようになりました。教会の場所以外で、キリスト教の信仰に触れられる場所など日本にはなく、祈りをしようとしても、一人ではどういのってよいかわからなかったからです。

もちろん、日本にあって、毎週教会に通うことはそれ自体珍しいことであり、当たり前ではないことです。それだけで、私のアイデンティティは、日本の文脈では特徴的なものとなりました。ですが、わたしにとっては、教会で語られる言葉、家庭で教えられる信仰が、気付いたときには文字通り自然と私の血と肉となっていました。隣人にとって当たり前でないことが、私にとっては当たり前のことのようでした。時にはそれは社会生活での緊張を生みました。たとえば、日本では、日曜日にときどき学校のテストがあります。お店も開いていますから、大学生のころはアルバイトの仕事も入りました。そのとき、わたしは礼拝に行きたいですし、安息日を安息日として聖別したいので、欠席、休暇を申し出なければならないのです。特に子供のころは、他の友人たちと違うことをすることは、日本人が大切にする「和」を乱すことだと思われ、容易いことではありませんでした。しかし、そのような緊張の中で答えを求めて聖書の言葉に耳を傾けたときには、いつも、遅かれ早かれ必ず私を生かす認識が重ねられたのです。そうして、わたしは、人生のすべての時間をかけて、キリスト者となっていった、あるいはキリスト者とされていったということです。

また、その中で、身内だけではなく、多くの信仰者との人格的な出会い、対話が、時宜にかなって与えられたことが、わたしのクリスチャンとしての今を成り立たせています。日本人は神道が、そしてときに神道と結びあう形で根付いた仏教がみずからの土着の宗教だと考えています。その他、影響力の大きな新興宗教もあり、現在クリスチャン人口は実質一パーセントか、それ以下です。毎週礼拝に通うような敬虔なキリスト者は、その中でも少数でしょう。日本のキリスト教自体は、16世紀のイエズス会の宣教に始まるものですが、その歴史の分だけ古い悲惨なキリシタン迫害の記憶も多々あり、キリスト教がこの地に根付くことは困難なことです。しかし、それでもキリスト者はいます。戦前、戦後の近現代史の中で、重要な社会的・文化的役割を担ってきたキリスト者も少なくありません。戦争の責任を、思想において国に協力した自らのものと問いつづけているキリスト者たちもいます。多くの出会いが、わたしのキリスト教信仰を批判的に強めてきました。わたしは、そのような人々たちの記憶を受け継ぎ、そのような人々との人格的な関わりがあったために、その歴史の上で、その文脈で、キリスト者となったと言えます。

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