2012年10月9日

震災に学ぶディアコニア


今から7年前、神学生として書いた青くさいレポート準備のメモがPCの隅から出てきました。
聖書の訳の議論も、現状把握も、恥ずかしいほどに未熟に思います。
(これでは、ただコンパクトなギリシャ語辞書を引いただけですから・・!)

ただし、今読みかえすと、わたし自身、その後も含めて、本当に「地震に学ぶ」
ことができていたか反省を促してくれることは事実です。そのため、
その青いかつての率直さに、感謝にさえ似た思いもないわけではありません。

昔の自分からのこの「問い」に直面して今その後の数年を顧みれば、恥ずかしくなります。
特にこの一年で痛感したことですが、かの「未熟さ」はなお変わらないことに
気付かずにはおれないからです。
いや、昔よりももっとずっと頭でっかちに迷っている点で、わたしは成長どころか、
さらに動きの遅い人間になっているのではないか、と恐れるほどです。

とりわけ、自然災害や人災の被害にあっている方々に「援助の品」を送ることについて、
わたしはこの度、これまでの災害への対応時にも増して、大きな躊躇を覚えたことをここに告白せざるをえません。

というのは、たとえば震災・津波・人災にくるしむ人々への「物資」の援助として、
電化製品が含まれるとき、「物質依存的な生活への反省」をした一方の心の動きと、
この援助は矛盾するのかしないのか、あるいは、矛盾するけれども被害を受けておられる方々の現状を考慮して一時必要と状況倫理的に判断するのか、わたしは個人としての答えを見つけていなかったからです。

各教会はどのような答えを聖書からくみ出して公のものとし、ボランティアに、募金活動に、
動いているでしょうか。教会の神学は、なおしばしば、社会の多くの議論/疑問への応答に、遅れを取っているように思えます。日本の教会の「ディアコニア」の神学は、阪神・淡路の大震災や、その後の出来事を経、東日本の被害を目の当たりにした今、こういった事態における教会の在り様について、どのような方向性を示しているでしょうか。

「それぞれの力に応じて」何ができるのか、これは、聖書が今日改めてわたしたちに問い掛けて
いる言葉だと思います。

以下、かの「青い」メモです。


地震に学ぶディアコニア

「そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。
その中の一人のアガボという者が立って、
大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、
果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。
そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、
ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。
そして、それを実行し、
バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。」
(使徒言行録11:27-28/新共同訳)

 阪神・淡路大地震の起こった1995年から数えて、今年 (2005年)ではや十年となる。その被災者たち、被災者の家族、友人たちの心の傷も癒えぬこの時に、畳み掛けるように二つの震災のニュースが飛び込んできた。新潟中越大地震と、スマトラ沖大地震(それによるTSUNAMIの被害)である。この大変な状況の中、日本キリスト教会は、ただちに献金によって義援金を集め、送金はしたものの、組織的な救援活動には踏み出せていない。スマトラにはもちろん、新潟付近に日本キリスト教会の教会がなかった(歴史的には関係がとても深い土地であるにもかかわらず!)ことも、今回の出足の遅さの大きな理由があるのかもしれない。宣教協約を結ぶ台湾長老教会からの新潟への義援金も、自らの手におえず、他の団体(赤十字社)に託すほかなかった。もちろん、個人的に力を尽くした教会員はいたであろう。しかし、全体としては、何が必要かわからない。阪神大地震の時にもまして、日本キリスト教会の実践的な弱さが見えているように思うのである。

 実践的な弱さは、実践的な神学の欠けに由来すると言えるだろう(神学的な動機付けが常に必要な教会なのだから)。教会形成の重要さを繰り返し繰り返し議論してきた日本キリスト教会であるだけに、この欠けを覚えることは大きなショックである。教会形成を神学するときに、すなわち、「改革派とは何か」「長老制とは何か」という問いの只中にあるときに、この面が後回しにされてきたのである。この面、つまり、〈ディアコニア〉の神学からの側面が決定的に欠けてしまっていたのである**ここでは、神学的な修正というより、神学界の実力・実践力が問われているのではないだろうか。

 上述の使徒言行録の記事は、災害の内にある兄弟に対する、教会のあり方を伝えており、日本キリスト教会の欠けている面を鋭く示してくれる。

    「それぞれの力に応じて」(新共同、口語、新改訳いずれにおいても、)訳されている箇所のギリシア語本文にはeuporevという言葉が見出せる。これは、コンコルダンスによると、新約聖書において、ここにしか見られない単語(ハパックス・レゴメナ)である。一度しか用いられていないということは、その語の重要性を思わせる。他の箇所で用いられている関連語を見てみると、以下のような語群が浮き上がってくる。

euporia, -as, h(<euporos, 裕福な)  富,財産;利潤,裕福,豊かな生計
euporouomai (evo) 繁盛する,栄えている,経済的に恵まれている.

 つまり、ギリシア語のニュアンスには、日本語の「力」というよりも、もっと具体的、現実的で、もっといえば経済的とも言える意味領域がある。「それぞれ『恵まれている富』、『与えられている財産』、『経済的な力』に応じて」というのがそのニュアンスを明確にした訳ではないか。聖書は、具体的に、神から教会に与えられた物を、苦しみの叫びのうちにある「兄弟のために」、その「恵みに応じて」用いるようにと言う。

 ②「援助の品」と訳されている語(口語訳では「援助」、新改訳では「救助の物」)のギリシヤ語には、さらなる注目がなされるべきである。というのも、この語は、まさに、「ディアコニアdiakonia」という言葉だからである。同類語も含めて辞書で調べてみると以下のようにある。

diakonia(<diakonos,給仕,奉仕者)食卓の給仕の務め, 奉仕(の務め),世話,接待.(教会での)仕える務め,ディアコノスの職務;「執事職」―教会によっては「助祭(補祭)職」と結び付ける.
diakonev  食卓の給仕人, 奉仕者, 仕える役目の者(奉公人,家来等). 教会で「仕える」役目に当たった人,奉仕者, 仕え役;英語の“deacon”と欧米の慣例的職務から「執事」(口語訳・新改訳)と訳されることが多いが,(新共同訳)は素朴に「奉仕者」と訳す.伝統的な旧教会では「助祭」,「補祭」と訳して“教職”の一階級と見る.
類語 diakonov は働いて仕える「奉仕者」;doulosは「奴隷」で,所有者である主人に対する; qeravpwn:(自発的)奉仕者.  uJphrevth":召し使い,家来, 従者, 下役, 助手(語源より見て従属を表わす);他に leitourgov「公僕」やoijkevth"「家つきの召使い」がある.
diakonw' (evw) (<diakonov,給仕,奉仕者)  食卓の給仕をする, 奉仕する, 仕える, 接待する, 世話をする;[人格を表わす語の与格,または事物を表わす語の対格と]~に仕える. 教会の中で「仕える」役目を果たす,奉仕者(仕え役)として働く;日本では欧米のdeacon(執事)の働きと同一視されることが多い.

 教会は、与えられている恵みによって、「給仕する」「仕えるもの」。とりわけ、この使徒言行録のような文脈で「仕えること」とは、「救援」を送ることであり、具体的に分け与えることによって、奉仕をなすことの意味合いが強いように思われる。

 たった一つのペリコーペから、たった二語を引いただけであるが、これだけでも、震災の苦しみの元にある人々に対する具体的組織的で、金銭にも関わる「奉仕の業」の必要性が、神学的に妥当だということができる。われわれは、教会として、このように聖書に沿った神学的な構築なしに行動することは本来できない。

 いや、このような細かな議論をする余地のない緊急事態であるとの反論もあろう。確かにその通りである。実際に、今、家を失い、物資と人出の不足にもがき、叫び声は響いている!われわれは、もはや、ただちに行動しながら、神学的裏づけの議論をしていく他ないのかもしれない。苦しんでいる者たちが、現に目の前にいて、叫んでいる。その現実にあって、祈りながら行動を起こしていく、その実践的な強さを発揮できる教会となりたい。

 **なお、改革派オランダ教会、ヤープ・ファン・クリンケン著『ディアコニアとは何か』という書物が、小塩海平氏(日本キリスト教会東京告白教会長老)による翻訳で、2003年一麦出版社より出版された。ディアコニアの神学的な構築に関して、欠けがあると言っているそばで、このような関心が日本キリスト教会に少しずつ湧きあがっていることをここに確認しておく。また、同じく一麦出版社より1998年に出版された、エルシー・アン・マッキー著『執事職-改革派の伝統と現代のディアコニア-』の翻訳者の一人、芳賀繁浩氏(日本キリスト教会神学校講師、豊島北教会牧師)も、この問題の重要性をかねてより指摘しておられる。とにかく、このような問題提起が、具体的な行動、教会の業とならないことには、この分野の議論の意味は皆無である。

(以上)

注)使用した辞書は以下のものです。
  玉川直重著「新約聖書ギリシャ語辞典」、キリスト新聞社、1978年

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