2012年4月21日

いもうとの結婚式によせて


Naomi entreating Ruth and Orpah
to return to the land of Moab by 
William Blake, 1795
「…あなたの神はわたしの神
…ただ死のみが、わたしたちを別つのです。」 

今月末、わたしの妹が結婚します。
留学中で帰国できないわたしですが、
あたらしい歩みを始める二人に、
心からの思いを込めて、祈りを込めて、
言葉のプレゼントを届けたいと思いました。

そこで、フラウミュンスター教会の
敬愛するN・P牧師にお願いし、
先日スイスの友人の結婚式で語られ、
感銘をうけた説教原稿をいただき、
わたしが翻訳して新婦と新郎に
お贈りするための許可を得ました。
メッセージの核の部分は、二人にも
相応しいと思ったからです。

既に同教会ホームページ(以下にアドレス)
には、日本語の説教も含めてのせていただいていますが、妹には、このページを通して
お祝いの言葉を、説教と共に、
お届けしたいと思います。



親愛なるC・O、敬愛するT・H

おめでとう!お二人のご結婚の報せを心から喜んでいます。

富めるときも、病めるときも、死があなたたちを別つまで
ふたりが主の御前に、深い信頼と愛情とをもって、
ともに笑い、ともに涙し、生きてゆかれますように。

心から祈っています。

2012年4月30日 兄より



ルツ記116節以下*


…わたしはあなたの行く所へ行き、あなたの宿る所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。あなたの死ぬ所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。主がいつでもわたしに御心のままになしてくださるように。ただ死のみが、わたしたちを別つのです。
*口語訳とチューリヒ訳に基づいたもの

親愛なるA・H、敬愛する、S・D
そして結婚式に集まった愛するみなさん

「あなたの行くところであれば、そこへわたしも行きます」…いかにも美しく、婚礼の場になんとも相応しい聖句ではありませんか!「…そしてあなたが宿るところ、そこにわたしも宿ります…」これも、結婚の日に合うと言ってよいでしょう。いや何よりも、お二人は今、[最後の句に共感して]こう考えておられるかもしれません:ああ、先生は、思いつきの聖書箇所を選ぶよりは、古典的に結婚式説教に相応しいとされてきた「ただ死だけがわたしたちを別つ」という有名な言葉を改めてわたしたちにも選んでくださったのだ、と。(一字一句の表現には幾らか異なることがあったとしても、この言葉と同じ意味内容をもつ約束を、二人も既にお互いに交わし合っていたことでしょうから、その共感は当然です!)しかし、注意していただきたいことがあります。それは、この聖句が、ひろく多彩な意味を持ち、驚くほどに複合的なものなので、軽やかな結婚の喜びをただ単純に表すものにはとどまらない、ということです。

まず何よりわたしたちにとって驚きなのは、この言葉が結婚ではなく、飢饉の困窮の文脈で語られているということです。さらに意外なことには、ここではこの言葉が、女性によって、女性に対して(!)語られています。

敬愛するA・H、親愛なるS・D、

そう、これは、困難な時代の、信頼に満ちた連帯についての、心揺さぶる物語なのです
―その連帯は、第一に女性たちのものでしたが、聖句は、心通わせ、共に生き、共に歩もうとするさまざまな民、さまざまな信条の人々を視野においてもいますー。そこで、わたしは、こう考えたのです。このことがお二人の心にとまるなら、共に歩むあなたたちの道の本質的な要素として受け止められるに違いない、と。

ナオミの物語の経緯をお話しましょう。ナオミは、飢饉から逃れるために、夫エリメレクと二人の息子と共に、ベツレヘムから異邦のモアブに移りました。けれども、まもなく夫は死に、ルツとオルファというモアブ人女性と結婚していた二人の息子もそれぞれ、新婚のよろこびも束の間、ともに世を去ってしまいます。
―こうしてナオミは、二人の義理の娘たちとともに残されてしまいました。彼女は、ベツレヘムで再び食糧を得ることができるようになったらしいと聞き、帰郷する手はずを整えます。
―それから、イスラエルへの帰郷の途上、ナオミは、自分についてきた二人のモアブ人の娘たちに、自らの家族のもとへ帰るようにと説得します。「イスラエルにはあなたたちの未来はありませんよ!誰がこの地であなたたちをめとってくれるでしょう?わたしはもう年が年だから、あなたたちのために息子を出産することなどかないません」(―いや万が一、彼女がなお出産のできる年だったとして、生まれたての子が18年後に結婚式の場に立つまで待つというのは、いかにも奇跡のような考えだといわなければなりません…―)。
―かくしてオルファは、涙ながらに姑のナオミに口づけし、モアブへの帰路につきました。ところが、一方のルツはナオミのもとに留まると言ってきかないものですから、ナオミは強いて勧めて言います。「あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへと帰って行きました。あなたも同じように引き返しなさい」。そこで、ルツが言うのが、あの言葉:

「あなたを見捨てよなどと、わたしに強いないでください。
わたしはあなたの行く所へ行き、あなたの宿る所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。
あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。
主がいつでもわたしに御心のままになしてくださるように。ただ死のみが、わたしたちを別つのです。」

なんと心揺さぶる連帯でしょうか―困難極まるときに、なんと愛の深く、心の堅実なことでしょう!二人は聖書的な意味における愛によって向き合っています。深みにおいて通じ、冷めた感情にも激情にも、情緒的な感傷にも陥らず、かえってこれを乗り超えています。(たしかに、後ほどナオミはその賢い助言によって、ルツがボアズという男性を―あらゆる予想に反して―夫として見出すことができるよう取り計らうことになるのです―ハッピー・エンドといったところです―、その意味では、やはりこの聖書箇所はなお幾許か、古典的な結婚との関連もあると言えなくはありませんが・・。)

さて以上のことを踏まえ、わたしは、聖書が今、あなたたちお二人に[以下の2点を確認するよう]語りかけていると考えたのです。すなわち第一に、あなたたち自身、実際に異邦で出逢って愛することを覚えたということ。あなたたち二人は、まさにモアブの地というのではありませんでしたが、そこからそれほど離れてもいない近東、トルコ、ペルシャへの旅を共にしたことがきっかけで、互いにそれぞれの人柄、生き方に魅かれるようになりました。人と人とが異なるということは、国が異なるということと同様、実はあなたたちをおびやかすどころか、かえって一つに結びつけるものだと、あなたたちはそのとき知ったのです。―愛は(そしてまた神の愛は)境界や限界に基づいて生きるものではない―これこそ、この物語の脈絡です!

さて、ナオミとモアブ人の義娘(むすめ)ルツのこの物語は、エズラとネヘミアの時代に語られたものです―すなわち、それは、バビロン捕囚後、自らのアイデンティティをめぐる懸念が生じたために、イスラエル人以外の女性との結婚が禁じられた時代です。

注意深く受け止めてください。モアブ人(!)女性ルツによる、次のような心動かす信頼、愛、連帯の言葉は、他でもない、この困窮の時代に語られたものなのです。

「わたしは…あなたの宿る所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。

親愛なるA・H、ここで、聖書があなたに呼び掛ける第二の点を確認しましょう。これはわたしがあなたから感銘を受けてきたことでもあります―すなわち、あなたのその率直さ、真面目さについてです。あなたはその開かれてかつ誠実な性格によって、たとえば他の諸宗教との境界線を単純に引いてしまうことをせず、むしろ対話を求め、他者を理解しようと努めてきました。―しかもその求めと努めが、なんでも適当に吸い込む内的な真空(バキューム)状態によってではなく、キリストを信じる深いひとつの信仰に基づいて出てくるのです。

親愛なるS・D、わたしはあなたからも同じように感銘を受けてきました。数学者にして神学徒であるあなたの、問いに取り組む情熱と、実存に向き合う熱情についてです。たとえば慣習だからという答えが、あなたを満足させることは決してありません。

「…わたしはあなたの行く所へ行き、あなたの宿る所に宿ります。」

あなたたちに、あなたたちの結婚生活に、あなたたちのこれからの共なる歩みに、なんとも相応しく、すばらしい聖書の言葉ではありませんか。

もちろん、S・Dはイスラエル人ではなく、A・Hはモアブ人ではありません。しかし、この聖書の語りかけをきっかけに、宗教上別の背景をもつ家庭に由来するあなたたち二人が、実際どのように異なる感性と、どのように違った考え方や着想を持っているかについて、ここで一緒に触れることは、すばらしいことです。歩みを共にし行こうとすれば、その道にあっては、求めが生じ、時には[次の言葉を巡って、]生産的な格闘(ファイト)をしなければならないこともきっとあるでしょう。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」。そうです、実際のところあなたたち二人だけではない、二つの家[]もまた、ここで共に寄り添おうとしているのです。もちろん、異なる二通りの神がいるというのではありません。けれども二つの個が、神の前にあるいは神と共に、実存をかけて向き合うのです。そこには、従って、細やかに心身を尽くす生が待っています。そのようにしてあなたたちはその道を行くのです。

ナオミが、ベツレヘムの出身であり、その地にルツが共に帰って行くということは、決して偶然のことではありません。なぜならこれは、ひとつの神の物語(れきし)、真理と連帯と愛の歴史(ものがたり)として語られていることだからです。ベツレヘム!そこにはイエスの物語があります。それは、あなたたちに大いなる深みをもって語りかけ、あなたたちがすでに知っており、またそれに生きているかの歴史です。愛は、all you need is love(愛だけが君に必要な全て)と歌われる以上のもの。このあなたたちの愛は、ベツレヘムに―イエスがお生まれになったあの地に!―深い根を張っているものなのです。ルツがイエスの系統樹に(ダビデの曾祖母として)見出されるのは、まさにこのためだったのです。

あなたたちの愛は、ベツレヘムにその(ルーツ)を持っています。というのも、神の愛をその深みにおいて説かれたまことの人、イエスがそこにお生まれになり、その愛が事実生きた場所であるからです。この人は、ご存知でした。愛には、担うべきもの、耐え忍ぶべきものが伴い、真理が伴い、さらには、そう、犠牲をも伴わなければならないということを。―その生命が捧げられることによって、もっと大きな生命が可能になるような、あの犠牲です。あなたの神はわたしの神」―神が、人を、ただ一人だけ御もとにおき、重んじ、愛するなどということはありえません。It takes at least two..少なくとも、二人…(わたしの名において、二人、または三人が集められるところ!)です。ですから、あなたたちにあっても、一緒であるときに、このことはもっとよく果たされるでしょう。

親愛なるS・D、敬愛するA・H、あなたたちの結婚生活のために、なんと美しいプランが与えられていることでしょう。それは、境ではなく連帯と寛容の歩みです―しかもあたりさわりのない、無難な(それぞれの流儀(ファッション)に従った)寛容というのでは決してなく、愛から出て愛を見出す開かれた実直さの道…また、ただなんとなく従う家族のならわしによってというのでもなく、富める時も、病める時も変わらない深い熱情と真実によって歩む道です。そして、もう二人は受け止めておられるでしょうが、おそらくは最初にだれもが抱く戸惑いやためらいを共に超えて歩みゆく道です。ナオミとルツ、そしてボアズの歴史は、あなたたちの物語です。なぜなら、そこでは、自立した、大胆な人間、誠実でありかつファイトのある人間について語られているからです。そして、心の最も深いところで、神の導きにどっぷり信頼しており、そのために多くの人々の祝福[の基]となるような人について、語られているからです。

そうです、ここで感謝を申し上げることがゆるされるでしょうか。あなたたちは、すでに、多くの人々の祝福となっています。すでに、このフラウミュンスターにおいて、あなたたちは祝福の源となってきたのです。あなたたちの愛は他の人々に光のように放たれ、この厳かで古いフラウミュンスター教会にあって、あなたたちによって新しいことが始まりました。J(ユング)フラウミュンスターの若い集まりです。そこで、あなたたちは他の若い人たちと心を通わせてきました。あなたたちの結婚生活が、そのような輝きを、さらに多く放つものとなりますように。神の祝福があなたたちに増し加えられることによって、あなたたちがいよいよ他の人々の祝福となっていきますように…。

アーメン。

2012年3月24日フラウミュンスター教会 
説教 N・P牧師
訳  Schu-hey


ダウンロードは教会公式HPよりどうぞ

2012年4月20日

ドロステ=ヒュルスホフの詩(私訳)                 Annette von Droste-Hülshoff,                 Geistliches Jahr in Liedern auf alle Sonn- und Festtage


Ja, seine Macht hat keine Grenzen,
Bei Gott unmöglich ist kein Ding!
Das soll mir wie mein Nordlicht glänzen,
Da meine Sonne unterging.
Und wie auf blauen Eises Küsten
Steh ich zu starrer Winterzeit,
Annette von Droste-Hülshoff,
Gemälde von 
Johann Joseph Sprick(1838)
Wie soll ich noch das Leben fristen!
Ach, keine Flamme weit und breit!
Doch sieh! wer winktdem milden Lenzen?
Daß er die tote Erdumfing.
Ja seine Macht ist ohne Grenzen!
Bei Gott unmöglich ist kein Ding!

Annette von Droste-Hülshoff 
(1797 auf Burg Hülshoff bei Münster
 - 1848 auf der Burg Meersburg in Meersburg) 


Sämtlische Werke in zwei Bänden. 
Nach dem Text der Originaldrucke und der Handschriften.
Hrsg. von Günther Weydt und Winfried Woesler. Bd.1. München:
Winkler, 1973. S.601


()御力(みちから)(きわ)
御神(みかみ)(あた)
我が日沈みし今や, これ
我が北極光(オーロラ)()(たた)べし
かくも(あお)
立尽す我、(かじか)()(),
如何(いか)我、生命(いのち)
ああ, 遥かならんとも(ほむら)
(いな), 視よ!(たれ)
(いだ)小春者あ
()御力(みちから)し!
御神(みかみ)

アネッテ・フォン・ドロステ‐ヒュルスホフ

(私訳  © 2012 Schu-hey


―以下、上の肖像と共にWikipediaより―

Daguerreotypie 
der Dichterin, 1845
アネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホフ(Annette von Droste-Hülshoff、1797年1月10日 - 1848年5月25日)は、ドイツの詩人。ヴェストファーレンミュンスターのヒュルスホフ城にて貴族の娘アンナ・エリーザベト・フォン・ドロステ=ヒュルスホフとして生まれる。兄達に混じってギリシャ語、ラテン語、フランス語、英語、イタリア語などを学び、早くから詩作を試み、また絵画、音楽にも才を示した。ミュンスター時代にはグリム兄弟の奨励を受け、後には哲学者ショーペンハウアーの妹アデーレと交流しその哲学上の感化を受けている。1826年、男爵であった父が他界し、リュッシュハウスの母に荘園に移り執筆と読書を中心とした閑雅な生活を送る。生涯独身で過ごし、1848年にボーデン湖メールスブルクのささやかな住居に移り住みここで死去した。主な作品にリュッシュハウス時代に書かれた「荒野風景詩」、宗教的な苦悩を書き表した「宗教の一年」など。職業的な作家ではなく興に任せて筆を取るという生活であっため作品は断片・未完に終わっているものも多いが、散文作品では唯一完成している中編小説「ユダヤ人のぶなの木」は、実際にあった殺人事件をもとにしながら農村部の人間模様や陋習を冷徹な筆致で描き、クライストの『ミヒャエル・コールハース』にも比せられている。

Bekenntnis der Evangelischen Kirche Kurhessen-Waldeck   (クルヘッセン・ヴァルデック福音主義教会信仰告白)


Glaubensbekennntnis 信仰告白

( I ) Wir glauben an den einen Gott,
der Himmel und Erde geschaffen hat
und uns Menschen zu seinem Bild.
Er hat Israel erwählt, ihm die Gebote gegeben
und seinen Bund geschlossen zum Segen für die Völker.

私たちは信じる 唯一の神を
天と地を創り 私たち人間をその似姿に造られた方を。
神はイスラエルを選んで彼らに律法を与え
諸々の民を祝福するためにご自身の契約を結ばれた。

( II ) Wir glauben an Jesus von Nazareth,
den Nachkommen Davids, den Sohn der Maria,
den Christus Gottes.
Mit ihm kam Gottes Liebe zu allen Menschen,
heilsam, tröstlich und herausfordernd.
Er wurde gekreuzigt unter Pontius Pilatus,
aber Gott hat ihn auferweckt nach seiner Verheißung,
uns zur Rettung und zum Heil.

私たちは信じる ナザレのイエスを
ダビデの裔、マリアの子、
神のキリストを。
イエスとともに神の愛が全ての人間にもたらされた
癒し、慰め かつ求める愛が。
彼はポンティウス・ピラトゥスのもとに十字架につけられたが
神が彼を復活させられた
私たちに救いと平安を与えるとの
ご自身の約束にもとづいて。

( III ) Wir glauben an den Heiligen Geist,
der in Worten und Zeichen an uns wirkt.
Er führt uns zusammen aus der Vielfalt des Glaubens,
damit Gottes Volk werde aus allen Völkern,
befreit von Schuld und Sünde,
berufen zum Leben in Gerechtigkeit und Frieden.
Mit der ganzen Schöpfung hoffen wir
auf das Kommen des Reiches Gottes.

私たちは信じる 聖霊を
言葉としるしにあって私たちに働く方を。
聖霊は私たちをみな信仰の多様性の中から導かれる
そうしてあらゆる民からなる神の民を
罪と咎から解き放ち
義と自由にうちに生命へと招くために。
全ての被造物と共に 私たちは希望する
神の御国の到来を。



Bekenntnis
 der Evangelischen Kirche Kurhessen-Waldeck

クルヘッセン・ヴァルデック福音主義教会信仰告白
(Schu-hey試訳:転載不可)


この信仰告白に関する説教(フラウミュンスター教会:ドイツ語+日本語)
→ http://www.fraumuenster.ch/index.php?option=com_phocadownload&view=category&id=66:ubersetzte-predigten&Itemid=58

2012年4月19日

対話の詩編22編―(ヴェスターマン&関根正雄)


      詩編23編ヴェスターマン関根正雄
                                                        

1聖歌隊の指揮者によってあけぼののめじかの調にあわせてうたわせたダビデの歌
わたしの神よ(エリー)、わたしの神よ(エリー)/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ(エローハイ)/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない

唐突に神への告発で始まる。ここで、神を呼び求めている者が神に対して、神が彼を捨て去ったと抗議を申し立てている。彼には、神との間の断絶の理由がわからない。2節aでは、神が「何故見捨てたのか」を神に問うている。2節bと三節では、神を昼も夜も呼び求めていたのに、返事がない、神は耳を傾けない、と言われている。いわばヨブに似た状況であって、神が御自身の側からなぜか人との関係を絶たれた、というところから問題が始まっている。詩人にとって神との交わりは余りに当然のことであるのに、今やそれが神の側から奪い取られた。これは丁度イエスの受難の時の状況であり、二節が十字架上のイエスの口から繰り返されたと福音書記者は記している。祈る者は、答えのない中で苦難に耐えなければならない。もし、この呻きと呼び求める言葉を神が聞いて答えてくださらなければ、この苦しみの状況は変えられない。
 しかし、神が聞いてくださり、答えてくださりさえすれば、この苦しみの状況に転機が訪れるはずである。詩人は神に捨てられた状況の中で、「わたしの神よ、わたしの神よ(エリー、エリー)」となお神に縋っている。エリヤだとか、他の誰かとか、神以外の何者を呼ぶのではない。彼は、「何故」と言って神を訴えながら、一番深いところで神に服従しているのである。「わたしの神」が二回繰り返されていることは、旧約の語法としては珍しいことだと言える。神はなおも自分の神であり続ける。神に捨てられた神なきこの詩人の状況において、神は詩人に最も近いのである。


4だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。
そのことが全く顕かとなるのは22節後半からであるが、4-6節も今の状況下でのギリギリの信仰告白である。なお聖所は高く、わたしとは隔たっており、神御自身は、人の手の届かないところで、沈黙し続けたままでおられるが、神のいない場所などないということに詩人は縋るべき細い一糸を見出そうとするのである。イスラエルは、神を高くすることが、讃美することだと知っていたはずではないか。神は、ほめたたえの中で、高き方として崇められる存在であったではないか。

5わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。
6助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。

そこで詩人は、父祖たちの信頼の事実を想起する。彼は、神の民の歴史に、神関係の根拠を捜し求める。「かつて」は、「依り頼んで」「依り頼んで」「依り頼んで」救われたものたちがあった。たしかに、「わたしたちの先祖はあなたに依頼み、依り頼んで、救われてきた。」ずっと昔のことである。しかし、これまでの嘆きと対照的なこの「救い」という主題は、現在の嘆きから抜け出す大切な一歩である。

7わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
8わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
9「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

「しかし、わたしは・・・」彼には、「依り頼んで」も神の助けはなお現実となっていないと思わざるをえない。そこに、苦しみの社会的な側面が展開される。すなわち、その苦しみとは、人から恥を受けることである。問題は、他の人々がこの詩人が神に見捨てられたと攻撃することから始まっている。彼らはこの詩人を侮る、つまり、神はもはや彼を助けず、心にもかけない、と。彼らは、これは神の正当な処罰であると考えている。神関係を顕在的には失っているその只中で嘲りを受けるこの詩人は、「わたしは虫けら、とても人とはいえない。」と、一人称の嘆きに戻っていかざるをえない。たしかに、人の前ばかりではなく、神の前に自分が失われ、人格性を喪失しているという罪の全体的な自覚を告白せざるをえないのである。(キリストの受けた嘲りを思う。彼は罪なきにも関わらず、十字架上でこの詩人の告白をまるで罪人のように祈られたのである。)

10わたしをの胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
11がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。の胎にあるときから、あなたはわたしの神(エリー)
12わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

しかし、詩人はもう一度、その信仰の根拠、神関係の根底を人間の側の意識や自覚にではなく、神との関係そのものに―具体的にはおそらく自分を産んだ(父)母の信仰を媒介にして―求めている。4-6節で先祖のことを想起していたとすれば、ここでは詩人はもっと身近な自分の父母、自覚以前の自分の過去を神の前に持ち出している。誕生以来、これまでずっと神は自分を守り続けてくれたではないか。神が存在しなかったならば、一瞬たりとも自分は存在することがないようなもの。神によって創造されたものとして、彼はふたたび、この詩編の冒頭にあった「わたしの神」との祈りを取り戻し、この祈りという希望に縋るのである。「わたしを遠く離れないでください。」この願いは、20節でも再び取り上げられることになる。嘆きの中の唯一の拠り所は、「わが神」が、「離れない」つまり、「共にいたもう」(インマヌエル)ということのみなのだ。

13雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。
14餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
15わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。
16口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
17犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
18骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
19わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。


13-19節では、嘆きが連続して出てくる。2-3節は、神に対する嘆き、7-9節は、一人称の嘆きであり、恥と言う悲しい目に遭うことを嘆いていた。再び15節で一人称の嘆き、16節で神に対する嘆きを見て取ることができる。「骨」「心」「口」、その人間全体を包括するような苦難そのものが語られ、それが、死ぬほどの苦しみであるといわれる。「あなたがわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」詩人は、命を司る神にこそ、この苦難を訴えねばならない。
他方、敵に対する嘆きが、13-14、17-19節に登場する。敵の存在自体が悲しみである。ここで、敵に対する嘆きとその他の嘆きが相互に密接に結びついている。もはや、誰が敵であり、何を敵対者が行ったのか、ここで嘆いている者の苦悩が何処にあるのか、実はよく分からない。ここで出てくる動物は、クラウスの言うように、病のデーモンだろうか。衣服を奪われている詩人は、死刑囚の場合を言っているのだろうか。(イエスの十字架がやはり思い出される。「骨が数えられるほどになった(裸の)からだ」を、「さらされ」、彼は衣服を奪われた。兵士はイエスの着物を分け、衣を自分のものとしようと「くじを引いた」。)あるいは、詩人が自分の体験を直接的に描いているというより、苦難の烈しさを種々のイメージで描いていると見るべきかもしれない。「獅子」「牡牛」「野牛」さまざまに襲い来る苦難!いずれにせよ、彼は多くの迫り来る苦難に打ちのめされているのである。

20主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください
21わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください
22獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください
神の力のみに縋る詩人によって、12節の願いがここで再び取り上げられなければならない。構造上注意すべきことに、12節では困難からの救出が願われているのに対して、20節では敵対者たちの面前での救いが願われている。敵対者たちは、再び野生動物として描かれている。

23わたしは兄弟たちに御名を語り伝え集会の中であなたを賛美します24主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ
25主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます
26それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
27貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美しますいつまでも健やかな命が与えられますように。


第二部では、23、25節(第一部と二部を結ぶ間接!)に嘆きの結びが拡大されて、嘆きが神へのほめたたえに変化する。今や、はっきりと救済が期待されている。ここで意図されているのは、ただ単純に喜びながら、応答することである。応答とは、まず「語り伝え」ること、物語ることである。そして、喜びを共にする人々と共に主に栄光を帰し、讃えの歌を歌うことである。彼の祈願は聞き届けられたのだから。ここで目立つ事は、(23、)26節にある「誓い」である。救われた者がその救いを集会の中で述べ、感謝の献げ物をささげ、27節からみると共同の食事(犠牲の食事)の席を設けることが、「誓い」内容のように見える。直接の祭儀的背景と解する必要はないが、自己の救いを他の人々にともに喜んで貰うことが詩人の大きな関心であることだけははっきり窺われる。そこには、貧しい者たちも招かれている。いや、貧しい者たちこそ、招かれている。「貧しい者」こそ、「主を畏れる者」「主を尋ね求める者」だからである。

28地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。29王権は主にあり、主は国々を治められます。
30命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
31-32子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

しかし、詩人の神讃美は教団の中に閉じ込められるものではない。その苦難が底知れず深く、その体験した救いが限りなく深かったのに応じ、その讃美は限りなく広がり、「地の果てまで」「国々の民」にまで及び、陰府にある者にまで及ぶ。諸国の氏族に広げられた神の王的支配を見ることもできる。そしてその支配について、詩人は大胆にもその死を超えた先にまで及ぶとしている。そして、さらに最後には、時間の枠も超えられている。
「まことに彼はその御業を果たしたもうた」(32)、この最後の間投詞句一句で詩人は彼の体験したことの意味をもう一度明らかにしている。救いは神の御業なのであり、それゆえ讃美は彼にのみ帰せられるべきなのである。神は働かれた!彼はこのことを経験した。この詩編の最初の文章と最後の文章との間にある大きな落差に注目せよ。神が働かず、聞かず、ということを経験したからこそ、今や彼は大きな転換を経験することになったはずである。この変化を経験したからこそ、彼はそれについて語ったはずである。彼が物語らねばならないことは、更に増えたに違いない。というのは、神が働いていたからである。旧約聖書神学が語るのは、まさに神の働きについてであり、すなわち、神と人との間に既に起きたこと、今起きていること、そして将来起ることについてなのである。
この詩をイエスの救いと切り離してわれわれは読むことができない。ヴェスターマンは、キリストは22編の嘆きを御自分の嘆きとした、この地上を歩まれたイエスのつとめは、嘆きを讃美に変えることであった、という。われらの絶望を荷い、われらより低く神なきところに下られたイエスの救いをこの詩はわれわれに示す。

引用/参考文献
           クラウス・ヴェスターマン『詩篇選釈』、教文館2006年
           関根正雄『詩篇註解(上)』教文館、1971年


ハイデルベルク教理問答について

Heidelberger Katechismus von 1563



〈問一〉      ハイデルベルク教理問答の全体の構造はどのようなものですか。

〈答〉   「聖書という山に登るための霊的な地図」とも形容される教理問答(CatechismKatechismus)は、聖書全体の簡潔な要約であること(従って、聖書の「教えの基準」【ローマ6:17であること)、またそこに示される神の言を繰り返し響かせ、教えるものであること(κατηχω;再び、響かせる)を目的として、教会史の中で、重要な折々にまとめられてきました。1562年、選帝侯フリードリヒ三世によりプファルツに召し出された4人(オレヴィアヌス、ウルジヌス他)により起草された「ハイデルベルク教理問答」は、まさにその目的に見合った教理問答として、現在に至るまで多くの教会で重んじられてきた教理問答の最高峰の一つです。起草者ウルジヌス自身の解説によれば、この教理問答の起草は、まず3つの目標を掲げることから始められました。以下の3つの目標です。

①教理教育のテキストとなること
②説教の基準となること
                     ③教会の一致の為の信仰告白となること

この3つの目標は「ハイデルベルク教理問答」のあのすばらしい構造を生み出した特徴として、無視してはならない事柄であるでしょう。その特質;「感謝の手紙」(カルヴァン)として世界へ広がったこと、体系的な全体の構成、聖書的性格、キリスト中心的な特質、実践的な特質、そして、エキュメニカルな特質は、ここに根ざしているのです。
    さて、ハイデルベルク教理問答の構造と、その内に示される神学を理解する際に、以下のような単純な図式化がきわめて有益です。
          
             Ⅰ-慰めを必要とする-人間の悲惨Elend
3-11問〕  
慰めTrost -唯一の慰めの土台であるイエスキリストによる-人間の救いErlösung
1-2問〕    〔12-85問〕 
                    -慰めに導かれた-人間の感謝Dankbarkeit
              86129問〕
     
     この図式に示されるように、また、先にも述べたように、この構成は、極めて体系的です。ハイデルベルク教理問答の新しく、同時に聖書の真理に根ざした、〈慰め〉という言葉がバックボーンとなって、3つの構造を作り出しているのです。さらに、明らかにこれはローマ書の構成に従った形をとっています。ここにも、聖書の神の言への信仰が表されているのです。カール・バルトは、次のように言っています。「慰めを主題とすることで、人間主題ではなく、神背景がある。」ハイデルベルク教理問答が示そうとしていることは、何よりも人間に対する神の恵みであります。神から与えられる人間の慰め-もちろんそれは、イエス・キリストの福音です-それこそ、私たちの教理、説教の基準として、そして、私たちが一致する信仰の中心であるとしてこの言葉がここに選ばれたのです。そして、もちろん、ルターが「律法から福音へ」、カルヴァンが「福音から律法へ」と言い表した人間の救いの構図が、ここにおいて一つとされている(罪の自覚を生じさせる律法から福音へ、そしてそこから救いの感謝としての律法の遵守へという構図)ことから分かるように、その恵みの神に慰められたものとしての私たち人間のたどる道筋も、この教理問答でははっきりと示されます。この教理問答が「聖書的経験主義」と称されるゆえんは、このように、罪の悲惨を知らされ、キリストによって慰めをうけ、感謝の内に神に栄光を表すキリスト者の姿が現実的な姿としてはっきりと描かれていることによるのでしょう。

〈第二問〉     いずれかの問を取り上げて、解説してください。

〈答〉    問21を取り上げます。それは、まことの信仰とは何であるかを語ることなしに、この教理問答で語られるただ一つの慰めを語ることは不可能だからです。

    問21   まことの信仰とは何ですか。
     答    それは、神がみ言葉によって、わたしたちに啓示して下さることを、全てそのとおりですと信じる確かな認識であるだけではなく、聖霊が福音によって、私たちの内に作り出してくださる心からの信頼です。  この信仰によって、他の人々に対してだけではなく、私に対しても、罪の赦しと、永遠の義と、祝福が全くの恵みから、ただキリストのみ業によって、神から差し出されていることを確信するのです。
  
      ここで、「確かな認識」、「心からの信頼」という言葉によって、信仰について、2重の側面から語られていることに注意しなければなりません。それは、カルヴァンの定義した言葉を借りるならば、「客観的信仰(fides qua)」と「主観的信仰(fides quae)」と言われる2つの側面です。(あるいは、ハイデルベルク教理問答がここで影響を受けているのは、メランヒトンの、認識・同意〔全てそのとおりですと信じること〕・信頼の三つの項目であるとの指摘を考慮するなら三重の定義であると言えるかもしれません。いずれにしても、)ここで明らかとされているのは、人間の信仰の不安や、不確かさの大いなる克服です。生まれながらに、つまり本質的に、神と隣人とを憎むように傾いている(問5)私たちの持つ信仰とは、それでは、やはり悪に傾いているのではないか、私たちがしばしば抱くそのような問を打ち砕く大いなる克服です。なぜ、そのような克服が可能なのでしょうか。それは、私たちの理性の働きにも心の動きにもよらず、ただ神のみ言葉による啓示によって、すなわち聖霊が働いてくださることによってのみ信仰を得るからであります。何よりも確かな、ゆるぎない堅固な神が聖霊によって、私たちに信仰を与えてくださること、神を知っている、いや、むしろ神から知られている【ガラ4:9】ということを聖霊によって示されていること、ここで示されているのはそのような大いなる慰めなのです。
聖霊の働きは、理性にも感情にも、知にも心にも、つまり、客観的信仰にも、主観的信仰にも働きます。理性では信じていても心は信頼していないというような信仰、あるいは逆に心では信じていても理性は認識していないというような信仰はまことの信仰とは言えません。聖霊の働きはそのどちらにも及ぶのですから、私たちは、まことの信仰を確かにアーメンとの告白のうちに〈霊的に〉認識し、そして、心から信頼することができるのです。
まことの信仰は、キリストのみ業によってのみ、永遠の義と、祝福が差し出されていることを確信します。キリストのみ業によって、聖霊を通して与えられた信仰が、神のみに救いがあることを確信する。この信仰を持ちうるようにされ、そのことを知らされた私たちは、その慰めを感謝せずにはおれないでしょう。

神学総論 Schu-hey 神学校時代(2003/2/22