2016年3月12日

一か月で読む列王記(上)

わたしが属しております教派の「家庭礼拝暦」の2016年1月分として公にした文章を、こちらでも公開いたします。1か月で旧約聖書列王記上の全体を通読するための手引きとなっていますので、どうぞ聖書と合わせてお読みください。祈り深い日々を!


1日

列王記上1章28~40節
民は皆、「ソロモン王、 万歳」と叫んだ。民は皆、彼の後に従って上り、笛を
吹き、大いに喜び祝い、そ の声で地は裂けた。(39b~40節)

 老王ダビデが女性を知ることはもうありません。アムノンとアブサロム亡き後、王位継承の候補はいよいよ、第四王子アドニヤと、バト・シェバの愛児ソロモンに絞られたのです。 「アドニヤ王、万歳!」。保守の重鎮ヨアブが支持するアドニヤは、兄アブサロム同様、父王の意向も問わず、戴冠の宴の席に鎮座します。今やバト・シェバの沈黙は命の危険に繋がります。預言者ナタンは王妃を促し、近隣諸国の常識とも、道徳的判断とも基準の異なる「王の誓い」を思い起こさせました。「主にかけて」、神の選びと約束を基準にして、王自ら誓われたではありませんか!  問われた老王は、主に救われた生涯を顧み、み言葉を思い起こします。 「わが子ソロモンを、わたしのらばに乗せよ」。祭司、預言者、勇士を筆頭にした多様な民が、らばに乗るダビデの子を前に、地を裂く勢いで叫びます。「ソロモン王、万歳 〔直訳:生きよ〕!」。アドニヤは震え上がり、油注がれた王にひれ伏すほかありません。神生きたもうと思い知る、新時代の幕開けです。

2日

列王記上2章1~4節
わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ま
しく雄々しくあれ。(2節)

 新しい道に踏み出すことは、大河の急流に踏み込むようなことです。さまざまな人生行路を経て今「この世のすべての者がたどる道」である死に向き合うダビデには、それがよくわかります。そこで跡継ぎ息子に語るのです。「勇ましく雄々しくあれ」。これは、大海を渡ったモーセが後継者ヨシュアに遺した言葉(申31:6)であり、その第二世代が大河を渡る際に神ご自身に賜った御言でした(ヨシュ1)。「ダビデの最後の言葉」(サム下23)という辞世の句を公にしていた王が、ここにきて「遺言」を口にします。まるで、最後の歌とともに勧告を遺した申命記のモーセのようです(申31:23)。「申命記的勧告」の焦点は、主の道を自らの道とすることにありました。「あなたの子孫が自分の道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく名が断たれることはない」。人生の大水を超える雄々しさも、「シェマー(聞け)」(申6:4)と呼ばわる主のみ声に聞く心をもつかどうかにかかっているのです。

3日

列王記上3章4~14節
あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に 従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。(11b~12a節)

 ソロモンの王としての最初の一手は、外交的な婚姻政策でした。エジプト王の娘を王妃としたのです。異教と交わる否定的な面が問題となるところですが、広い視野の情報収集策とも言えます。王は、国内外の事情に通ずることを欲しました。とくに国内では裁判官の務めも負いましたから、多様な人々の問題を見極め「訴えを正しく聞き分ける知恵」が求められました。考古・碑文研究の成果によれば、夢枕に王が神と出会い、知恵を授かるというモチーフは、古代エジプト文学にも見られます。長寿でも富でも敵の命でもなく「聞き分ける心」を求める「知恵の王」は、全オリエント共通の理想像でした。一方、民を数えて掌握した気になった父(サム下24)と違い、自国民すら多様で把握できないという「無知の知」も、ソロモン王にはありました。知恵は本来神のもの、憐れみの主に求めるべきもの。「主を畏れることは知恵の初め」(箴1:7)というイスラエルの謙った知恵の伝統と、国際的な視野の広さが、ここに交差しています。

4日

列王記上5章9~14節
神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。ソロモンの知恵は東方のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさった(9~10節)

 たとえばセネカ、パスカル、シェイクスピアやダ・ヴィンチより、あるいは平賀源内よりも? 聖書は当時著名だった詩人エタン(詩89:1)など万能人の名を挙げ、その誰よりソロモンが豊かな知恵者だったと伝えます。「周りのすべての国々に知れ渡った」その知恵は、「ソロモンの大岡裁判」(3:16以下)の場合のような法と裁きに関する知識、つまり「訴えを正しく聞き分ける知恵」(3:9、11)に留まらず、学問的、自然科学的、百科事典的な広がりも持っていました。神殿等の建材として重宝されたレバノン杉(王上5:15)から、過越祭で羊の血と混ぜて鴨居に塗られたヒソプ(詩51:9)まで、さらに「獣類、鳥類、爬虫類、魚類」についても論じたほどです。それだけではありません。三千六百の詩と四百五十の歌を作ったとクムラン文書が伝えるダビデに勝るとも劣らぬ詩人、文人、音楽家として彼が作った「格言は三千、歌は千五首」を数えます。この知恵が、「海辺の砂浜のような広い心」や洞察力と共に、神の賜物だと言われるのです。

5日

列王記上5章17~19節

今や、わたしの神、主は周囲の者たちからわたしを守って、安らぎを与えてくださり、敵対する者も、災いをもたらす者もいません。ここに至ってわたしは、わたしの神、主の御名のために神殿を建てようと考えています。(18~19節)

 ダビデが神殿建築を果たせなかった理由のひとつとして、「戦いに明け暮れ」たことが挙げられています。神殿建築の前提条件は、何にもまして「平和」なのです。「王位をうかがう者」(新共同訳2章見出し)と呼ばれたアドニヤも、彼に加担し失脚したダビデの伯父ヨアブも、あるいは初代王サウルの家のシムイも、ソロモンの脅威になりそうな一派は皆、王に忠実な軍人ベナヤの剣に倒れました(2:25、34、46)。とくにヨアブとシムイのふたりについては、彼ら自身に起因する血と呪いに応じて報いよと、ダビデの遺言に命じられていました(2:6、9)。ここで、ダビデ王在位中から懸案だった内々の争いの種が一掃されたのです。加えて対外的にも、周辺諸国との関係は良好で、「国境はどこを見回しても平和」でした(5:4)。今やここに至り、安らぎのうちに、神の名を置く神殿の建設が始まります。平和なしでは木材も人材も不足したことでしょう。平和はこのようにして、神の約束(サム下7:13)の実現に貢献します。

6日

列王記上8章1~13節
主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった。荘厳な神殿を いつの世にもとどまっていただける聖所を わたしはあなたのために建てました。(12b~13節)

 主の王座と王の王座は切り離せません。神殿と宮殿の建築が並んで言及されたのはそのためです(6,7章)。天の王座にいます主が神殿にとどまってくださるなら、従う地上の王の支配も確かにされる(詩2)。そのしるしとして、召集行進犠牲祝福の構成をもつ祭りの中、ダビデの町シオンから神殿内に、契約の箱と臨在の幕屋が移されます(8章)。以降毎年祝われる七月祭(「シオン祭」詩132)の描写ですが、その起源はダビデ時代にありました(サム下6)。十戒の板を納めた契約の箱が、北の聖所シロから新都エルサレムに移ったときのこと。主のご臨在と御言(みことば)のゆえに王朝の祝福は確かだと、ダビデは裸躍りで喜びました。時は移り神殿建立の今、「シナイ契約」と「ダビデへの約束」(サム下7)はいっそう深く結ばれます。出エジプトの神が「密雲の中」(13)現臨なさる、つまり見えない力で民を取り囲んでおられる。王は全会衆と共に、日の出より明るい雲居の栄光にいつまでも満たされる共同体の希望を新たにします。

7日

列王記上8章14~21節
主は約束なさったことを実現された。主が約束なさったとおり、わたしは父ダビデに代わって立ち、イスラエルの王座につき、イスラエルの神、主の御名のためにこの神殿を建てた。 (20節)

 今や王は振り向いて、「祝福された」全会衆に呼ばわります。「主はたたえられますように」!当該箇所(14,15)のヘブライ語原典では「祝福する」と「たたえる」は同じ単語です。王は、神からの祝福を人にもたらし、人からの祝福〔=讃美〕を神にささげる橋渡しの務め、つまり「祭司的王」「仲介者」の務めを果たします。また、約束の成就を繰り返し告知して、預言者のような務めも果たします。「主は自ら語り」(15)「約束なさったことを実現された」(20、24~26)。教会の信仰によれば、これらの務めはキリストの御業の豊かさを予め指し示すものです。主キリストは真のメシア。油注がれた「王」(詩2) 「祭司」(詩110) 「預言者」(民12:2以下)の三職を完成された方(カルヴァン『綱要』2:15)! 出エジプトの日から(16)王国時代を経、歴史の中で互いに絡み合い交差しながら三職の伝統は深められました。その交わる伝統が「祝福と讃美」の大きな流れとなり、キリストの人格に、その体なる教会に、すべて流れ込んでゆくのです。


8日

列王記上8章22~26節
イスラエルの神よ、あなたの僕、わたしの父ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。(26節)

 かつて主が「僕ダビデ」(24、25、26)に約束なさったことが「今日このとおり」(24)実現されました。「父」(15、17、18、20、24、26)から約束を継ぐ息子は今や、そう祈ることができます。神の約束の成就を「今日」の事柄として受けるとは、なんと幸いな人でしょう。いや、これは、王親子の祝福にとどまらず、「心を尽くして御前を歩む僕たち」への「契約」の成就だとも言われます(23)。「僕ダビデ」は「僕たち」、つまり「全会衆」(14、22)の代表なのです。今ここに成就した約束は、かつて「主が先祖をエジプトの地から導きだされたときに、彼らと結ばれた」「(シナイ)契約」(21)と繋がり、歴史を貫いています。だから「今日」イスラエルは、父祖の伝承を振り返りながら同時に、「今後も」同じ約束が守られ続けることを確信して祈るのです。「約束が、今後も確かに実現されますように」(25、26)。いつの時も、夕に朝に常なる「今」を感謝して祈る。それが、常しえに生きる永遠者を、「慈しみを注がれる神」(23)として知る僕たちの姿です。

9日

列王記上8章27~29節
神は果たして地上にお住いになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。……わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。(27、28節)

 神は地上ではなく、天に住んでおられます(27,30)。しかし、被造物としての大空や天蓋や宇宙のどこか(「天の天」27)に住居があるのではありません。神は天に住まうという表現は、神がどんな制限下にもないことを意味する場合にのみ有効なのです。ただ、聖所に「わたしの名をとどめる」との神の約束も真実です。モーセの「申命記法」(申12~26章)によれば、「主がその名を置くために選ばれる場所」(申12:11、21)が確かにあります。神ご自身が言われたのです。「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住む」(出エ25:8)と。「叫びと祈り」をささげる場所が人間に必要なことをご存じの神が、その声を聴くために聖所建設を許してくださいました。移動式の幕屋から動かぬ丘の神殿に祈りの座が移され、祈るべき方向が定められると、かえって御心の自由な広がりを覚えます。神は建物に住むのではなく、夜も昼も主のまします所へ向かう心に寄り添い、「讃美に住まう」(詩22:4、84:5)方なのです。

10日

列王記上8章30~40節
あなたの民イスラエルが、だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら、そのどの祈り、どの願いにも、あなたはお住まいである天にいまして耳を傾け、罪を赦し、こたえてください。(38~39節)

 「主よ、聞き届けてください」、聖所内でも、遠く隔たった場所からでも、「この所に向かって(しもべ)がささげる祈りを……僕とあなたの民イスラエルがささげる願いを」(29~31)! 王はひとりの信仰者として、また民の代表として祈願します。聖所内でも義は問われ、外に出ればいっそう魂の叫びが湧きあがる。敗戦(33)の事態、天災(35)や飢饉や病(37)、開戦(44)もしくは捕囚(46)の苦境に直面する。そんなとき、叫ぶ心をどこに向けるべきかを知る人は幸いです。昔、同じ苦境に言及したモーセは、これを「神の呪い」に関わるものと説きました(申28章)。この教えに共鳴するダビデの子も、苦難を神との関係の問題と捉え、人間全体が陥る罪を悔い改め、心向きかえる契機とします。「すべて人の心をご存じ」(39)で「悪人の行いに報い、義人の義に報いる」(32、口語訳参照)神が、「罪を離れて立ち帰り」(35)「憐れみを乞う」(33)声に「耳を傾け、罪を赦し、こたえ」てくださる(39)。この神信頼にのみ、窮地の希望があります。

11日

列王記上8章41~50節
こうして、地上のすべての民は御名を知り、あなたの民イスラエル同様にあなたを畏れ敬い、わたしの建てた神殿が御名をもって呼ばれていることを知るでしょう。(43c節)

神の宮は、祈りの場として異邦人にも開かれます。神は天にいます世界の主ですから、「地上のすべての民」(43)が「大いなる御名と力強い御手と伸ばされた御腕のことを耳に」(42)し、神を知って謙る者とされる希望は確かです。後々この確信に、捕囚期のイスラエルがどれほど励まされたことでしょう。「遠くあるいは近くの敵地に捕虜として引いて行かれ」(46)、眼前から聖所を奪われようとも、主を知る者から「祈る方向」と「立ち帰りの可能性」が失われることはありません(44、47、申30章も参照)。現在のイスラム教徒に「キブラー」すなわち向かい祈るべき聖地の方角があり、ユダヤ教徒に(嘆きの)西壁ごしの天の神殿があることに似て、古代イスラエルには「祈りの方向感覚」がありました。キリストの御名と御業によって「世界の父なる神」を知ったキリスト者にはどうでしょう。「神殿を三日で建てる」と言われた御子の復活のからだに結ばれた教会には、「聖徒の交わり」における「御国への方向感覚」が大事だと思わされます。

12日

列王記上8章54~61節
わたしたちの神、主は先祖と共にいてくださった。またわたしたちと共にいてくださるように。(57節)

 王はこれまで「両膝をつき、両手を天に向かって伸ばして」いました(22、54)が、祈る中で知らされたことは、むしろ主こそが「力強い御手と伸ばされた御腕」(42)をもって今ここに臨んでおられることでした。王はふたたび神讃美を促しつつ「立ち上がり、立ったまま大声でイスラエルの全会衆を祝福」します(14、55)。教会の礼拝にも残る「祝福と派遣(祝祷)」がとりつがれるのです。内容も、「主の恵み」(56)を覚え「主が共にいてくださるように」(57)と願いつつ「日々」(59)へ送り出すもので、「……行きなさい……わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:20)という主イエスの派遣や、「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にありますように」(二コリ13:13)という初代教会の祝祷を思い起こさせます。民を見捨てず古来常に「共にいてくださった」(57)神の伸ばされた御手の力を受け取るようにして、今ここに「主と心を一つに」(61)、献身の歩み(62以下)が始まります。

13日

列王記上9章1~9節
わたしはあなたがわたしに憐れみを乞い、祈り求めるのを聞いた。わたしはあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこにわたしの名をとこしえに置く。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。(3節)

 何事も、念願を果たし終えてからが要注意です。建築完了後のソロモンに、かつて夢枕に現れた主(3:5)がまた臨んで言われます。「王の祈願、憐れみの求めを確かに聞いた」。さらに主は、「わたしは絶えずこれ(神殿)に目を向け、心を寄せ」ようとも言われました(3)。数年前の夢どころか、モーセへの御言まで確かめられます。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない」、むしろそれは「ただあなたに対する主の愛のゆえ……先祖に誓われた誓いを守られたゆえ」だったのだ(申7:7、8)。主の愛は、約束への主の信実、誠実さに確認できます。ダビデ契約の成就(5)も、永遠の主の憐れみのしるしです。主がかくも愛に忠実であられるからには、民も喜んで愛の戒めに生きるべきです。ああしかし、信実を保てない民の弱さを見透かす言葉(6~9)も見逃せません。「災いだ」! 捕囚期の鋭い預言者の声(エレ22、24章)が先取りされ、神殿崩壊の影が見え隠れします。

14日


列王記上10章1~13節
あなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。(9節)

 ダビデ在位中から親交のあった(サム下5:11)ティルス王ヒラムとの友好関係の結果、ソロモンはフェニキア式の建築術や資材・資金の提供を受け、葦の海の貿易も管理下に置きました(9:10~28)。グローバル化は良くも悪くも国の宗教・社会・文化を多様にし、王を知的・物的に富ませます。この文脈で登場するのがシェバの女王です。アラビア半島辺りから来たのでしょうか、「南の国の女王」(マタ12:42)については、降誕節の東の三賢者にも似た、世の果て(詩72:10)の異国情緒に謎めくイメージもあります。栄華を極めるソロモンの知恵と富に女王は息をのみ、神を讃えて「主はとこしえにイスラエルを愛している」と認めました。疑い深いトマスよろしく「見るまでは信じない」(7)と豪語した女王が、見えない主をほめ、豊かな贈り物をします。物と知識に溺れがちな知恵者ソロモンは気づいたでしょうか、一番の「賢者の贈り物」は何より神讃美です!

15日

列王記上11章3~13節
ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった。主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。(9~10節)

 この前後で、モーセの葦の海の奇跡以来初めて「エジプト」が聖書の表舞台に登場します。ソロモンは、エジプト馬や戦車を輸入し(10:28,29)、ファラオの娘をはじめ多くの妻を囲いました(3:1、11:1)。「出エジプト」の道を逆行する「エジプト入り」の事態です。申命記「王の規定」には、軍備や資金作りのためエジプトに立ち戻って馬の取引きをすることや、大勢の妻を娶って心迷わせることは禁じられていたはずです(申17:16、17)。今や背反の王に、神が直接臨まれます。倫理や政策の上でどうかと論じるのではなく、シナイ以来の神との契約関係の亀裂を知らせるためです。王妃の慕う神々に心を分裂させ祭壇までこしらえるソロモンに、神自ら段階的な戒告をなし、その上で悔改めなしと認めると、ついに王国分裂を宣告なさいます。すると、まず諸国の独立がなり、エジプトメソポタミア間を結ぶ貿易路が遮断され、国内動静も不穏になりました。この期に及んでは、神がダビデをお忘れにならないことだけが一縷(いちる)の希望となります。


16日

列王記上11章26~36節
わたしは彼の息子の手から王権を取り上げ、それを十部族と共にあなたに与える。彼の息子には一部族を与え、わたしの名を置くためにわたしが選んだ都エルサレムで、わが僕ダビデのともし火がわたしの前に絶えず燃え続けるようにする。(35~36節)
 
 ハダドやレゾンという近隣の敵に加え、国内でも老王ソロモンの脅威となる人物が現れます。エフライム族のヤロブアムです。若い日に王に認められ、ヨセフ族(北の諸族)に割り当てられた労役の総監督になった人です。個人としても、未亡人の母をもつ苦労人の出世頭の印象ですが、部族としても、南の王家に支配される北の労苦を知っています。エフライムといえば、シロの祭司エリの後継者サムエルを輩出し、サウル王のベニヤミン族同様、王国建設に役を果たした部族です。しかしサウルがサムエルの上着を裂いた決裂の日(サム上15:27)以来、そしてサムエル死後はとくに、シオンの栄光の陰に忍従してきたのです。主は王家を離れない、だが女神や太陽まで崇める国が放任されるはずもない。シロの預言者アヒアが真新しい外套を十二部族の数だけ裂き、そこから取った十部族分をヤロブアムの家/王朝とする御旨を告げます。ダビデ家は風前のともし火ですが、かろうじて残る微光(ひかり)に主の憐れみを思うべきでしょう。

17日

列王記上11章37~40節
こうしてわたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、いつまでもというわけではない。(39節)

 ダビデ家を断罪する主が、「しかし、いつまでもというわけではない」と言われます。王朝は断たれず、一部族ダビデの子に残されるともありました(32)。まるで父が子を思うよう、神の憐れみが見えるようです。後にダビデの子らは苦難の中でこの憐れみに「いつまでですか、主よ」(詩79:5、89:47)とすがることになるでしょう。神はしかし、子どもの悪さにお説教する場面で慰みをいう甘やかしの父親ではありません。むしろ、神の「摂理(プロヴィデオ)」(「先立って見る」の意)、つまり歴史を見通す視野の広さと確かさを覚えるべきです。神はすでに南北の分裂後の回復を、神と民の契約関係の行方として見通しておられます。だから、北王国の祖ヤロブアムとの契約に言及する文脈で、罪の赦しと契約刷新がダビデの名において結ばれる明日への示しがあるのです。ヤロブアムは「望みどおりに支配」(37)するでしょう。しかし歴史を貫く御旨の啓示に留意し、「掟と戒め」(38)、神の愛の関係に生きないなら、明日を読み違えてしまうでしょう。

18日

列王記上12章25~33節
彼はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り、人人に言った。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」(28節)

 そう、北王国のヤロブアム王は「良く考えて」(28)金の子牛を造ります。「イスラエルよ、自分の天幕に帰れ。ダビデよ、今後自分の家のことは自分で見るがよい」(16)。この声に応じた十部族を治めるためには、当世風・外国(フェニキア)風で太陽神の宮かと見紛(みまが)うような装飾のエルサレム神殿とは別の、ソロモン王宮と切り離された新しい神の家が必要でした。自ら父祖アブラハムの聖地シケム(創12:6)に住み、ヤコブの聖地ペヌエル(創32:31)を再建しますが、神殿のためには両父祖ゆかりの「神の家」ベテル(創12:8、28:19)を選びます。さらに今やカナンの影響にどっぷりの民衆に考慮し、神を想起させる力と栄光の象徴として「金の子牛」を、南端のベテルと、北端のダンに置いたのです。そう、よく考えられた宗教改革ですが、彼の知恵には神への恐れが欠けています。その言葉はアロンの民の声(出エ32:4)に共鳴し、結局はモーセが断罪した偶像崇拝復活の契機となるばかり、後世に残るは「ヤロブアムの罪」という悪評だけでした。

19日

列王記上13章1~10節
見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤという。(2c節)

 「申命記改革」(王下23章)に先立つこと300年、ダビデの家にヨシヤが生まれるとの「予言」が語られました。あからさまな未来予告は聖書でも珍しいものです。ヨシヤとは、神殿で発見された「律法の書」に基づく宗教改革など「主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった」(王下22:2)王として、ヤロブアムと正反対の評価を受ける人です。彼は神殿を改革するだけでなく、「ベテルにあった祭壇と……ヤロブアムが造った聖なる高台を取り壊し」ました(王下23:15)。かなり先の予言が、名もない神の人からヤロブアム自身に語られたという信じがたい描写は、何を意味するのでしょう。神の人を捕えんと伸ばした王の手が萎え、この人が祈った途端癒されたという奇跡も不思議です。しかし聖書は「主の言葉に従って」事は起こったの一点張り(2、5、9)。伝承者自身、永遠者の摂理と力を信じ、(おのの)きつつ語っているのでしょう。神にできないことはない、畏れをもって御言に聞こう、と。

20日

列王記上16章23~28節
オムリは主の目に悪とされることを行い、彼以前のだれよりも悪い事を行った。(25節)

北王国の王は、ヤロブアムとその子ナダブも、バシャとその子エラも、一代で果てた王ジムリも、「主の目に悪とされることを行った」と一言で片づけられています。しかし続く王位争奪戦を制したオムリに対しては、さらに「彼以前のだれよりも悪い事を行った」と、聖書の嫌悪が際立っています。これは、ユダの王レハブアム、アビアム、アサもあわせた南北全体で、歴代最低の評価でした(とはいえその子アハブが「最悪」の記録をすぐに更新しますが)。しかし聖書外資料によればオムリは、その死後も北王国が「オムリの家」と呼ばれ得たほど、多くの事績を残した稀にみる大王でした。現イスラエルの大規模遺跡のほとんどに名を残すヘロデ大王もそうですが、政治手腕や事業の成功、富と権力が聖書の評価を動かすことはありません。オムリ最大の業績はサマリア建設でした。これは北王国にとって、ダビデのエルサレム遷都に匹敵する意義をもつ政策です。しかし聖書は一貫してこう訴えるのです、ただただ「主の目」で歴史を見よ、と。

21日

列王記上17章1~16節
主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」(2~3節)

 「わが(エリ)()(ヤー)」という名の預言者エリヤが突然登場します。シドン王エトバアルの娘(16:31)に従いサマリアにバアル神殿を建立したアハブに、御言を告げるためです。信仰告白を伴う干ばつ預言(1)は、天候神バアルへの宣戦布告でした。対決に備える預言者は、東ヨルダンの涸れ谷で「主の言葉」が導きであり命の泉だと確かめます(2,5)。通常貪欲な(からす)から朝に夕に分け与えられるパンと肉に養われ、かえって「人はパンだけでなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命8:3、マタ4:4、ルカ4:4他)と知るのです。御言は、シドン王妃の町サレプタ(9、ルカ4:26)でも彼を養います。弱い時に主は強く「主の御言葉のとおり」すべて成るとの確信は、この敵地で深まるのです(15,16)。貧しいやもめの食材が、尽きない豊かな糧となり、五千人を養ったイエスのように「この人こそ預言者」(ヨハ6:14)「神の人」(24)だと認められる時、その「口にある主の言葉は真実です」(17:24)との告白の輪が広がることになるでしょう。

22日

列王記上17章17~24節
彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、我が神よ、この子の命を元に返してください。」主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。(21~22節) 

 「主は生きておられる」とエリヤも女主人も告白してきました(1,12)。実らぬ大地の涸れ谷でも、やもめの貧しい不安の家でも、御言に信を置くなら「恐れはいらない」(13)と実感させられたからです。彼らは実際、御言のパンに満たされました。しかし、喜びのさ中で、命の神の信仰を揺るがす「死」の問題が立ちはだかります。やもめは重病の果てのひとり息子の死に直面し、なきがらをふところに抱いたまま、主は命を与えるだけでなく、奪うのだと思い至ります(ヨブ1:21参照)。神は、罪の結果の死をもって懲らしめようと預言者を遣わされたのでしょうか。いいえ、これはむしろ反対に、主が死神でなく「生ける神」だと知らしめる出来事です。だから「見よ、あなたの息子は生きている」! 子に三度身を重ね「わが神なる主よ」(20,21)と呼ばわるエリヤの執り成しに耳を傾けた神が、ついに子の命(魂)を返されたのです。後の預言者エリシャの奇跡(王下4:13)、そして何より「まことの神の人」と呼ばれたイエスの復活の秘儀を思わされます。

23日

列王記上18章16~22節
   あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。(21節)

 アハブの宮廷長は、「(ヤー)(エべド)」を意味するオバドヤという名にふさわしく、幼いころから主を畏れ敬う人でした(3、12)。このような人物の仲立ちをえて、エリヤはついに三年越しにアハブの前に姿を現します。サマリアはすでにひどい飢饉に苦しんでいました。「地の面に雨を降らせる」時だという「主の言葉」(1)にしたがうエリヤは、たったひとりで、王の悪妻「イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者」(19)と直接対決することをアハブに了承させます。王は、海を見下ろすカルメル山に全民衆を、預言者たちと共に集めました。こんなに多くのバアルの預言者がいたのです。しかし、エリヤの関心は民衆にこそありました。今こそ、「ふたつのものの間(21、口語訳)」にいて「冷たくも熱くもなくなまぬるい」(黙示3:16)民衆にとって、決断の「時」なのです。「もし主が神であるなら、主に従え」(21)。なお沈黙する民がみな「主こそ神」(40)と告白し、恵みを降らす天地の主なる神を讃える時が来ます!

24日

列王記上18章30~46節
アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。(36節)

アレッポ発掘の石碑(前8世紀)には、雄牛の背に立つ天候神が刻まれています。バアルです。この名を呼ぶ夥しい預言者の声が山から海にまで轟き、身を裂き踊り狂う異様な熱狂が広がります。しかし、叫ぶほどに際立つのは、神の沈黙でした。対するエリヤは騒がず、「アブラハム、イサク、イスラエルの神」への祈りと12(南北!)の部族に臨む御業に集中します。民にも近づくよう指示し集中を促しました。民は主の力を知りませんが、涸れ谷で烏に養われたエリヤや、一握りの小麦粉と油で幾日も養われたやもめを知る聖書(17章)の聴き手にはわかります。主は祈りに応え、驚くべき御業を行う方だと! 十全に水を注いだ薪のいけにえが、突然「主の火」になめ尽くされると民は恐れ、口ぐちに告白しました。「主こそ神、主こそ神」!バアルの預言者が民の手に倒れるのを見、海の彼方から雲が上りくると聞いたアハブは命からがら逃げだします。一方裾をからげ王より早く下山するエリヤには、主の御手の護りが確かに見て取れました。

25日

列王記上19章1~8節
主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。(7~8節)

「『われエリヤ(わが神は主)』と汝は言う、ならば『われイゼベル(君=バアルはどこに)』と・・・・・」。2節のギリシア語訳では原典と違う本文があります。ここで本当の対決構図が示唆されるのです。バアルの預言者との戦いを終えたエリヤは、息つく間もなく王妃イゼベルの追求に亡命を強いられます。ベエル・シェバの荒野に至り、力なく座りこむ彼。アブラハムから追い出されたハガルがこの地を彷徨った故事を思い出したでしょうか(創21:14)。彼女が死を覚悟したそのとき、御使いが「恐れるな」と励ましました。エリヤも今、疲労困憊の中死を覚悟、いや希望さえします。かつて同じようにモーセも叫んだことを知っていたのでしょうか(民11:15)。神の務めに伴う「死の誘い」は、他の預言者も(エレ20:14)もイエスも(マタ4章)経験したもので、確かに抗いがたいのです。だがそのとき、神が命の糧へ導きます。「起きて、食べよ」! 「生の誘い」に従うエリヤは四十日を生き抜き、ついにモーセが栄光を見た神の山に至るのです(申9:9)。

26日

列王記上19章9~18節
見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩をくだいた。しかし、風の中には主はおられなかった。(11b節)

 エリヤは神の山で、光を避けるように洞穴に潜み、夜の戸張に息を殺します。主の呼び声がありました。「何をしているのか」(9)。独り命を狙われ、逃げ込み隠れざるをえない現状を訴えると、主は言われます。直ちに暗がりの穴、夜の闇、「そこから出て、山の中で主の前に立ちなさい」(11)。主の光を仰げというのです。見よ、主は目の前を通り過ぎ、大風、地震、火の奇跡を次々に行われます。カルメル山の奇跡(18:38)や、モーセの燃える柴(出エ3:4)を思わせる出来事です。しかしここで主は、どんな奇跡の中でもなく、ただ「静かにささやく声」に、生ける神存在の深みを示されたのです。いや、モーセもまた、奇跡自体ではなく、父祖の神としてご自身を啓示する神の御言から主にまみえる重みを知り、恐れて顔を伏せたのでした。同じ問答の後、エリヤに今度は派遣の言葉が告げられます。行け、次の預言者エリシャをめぐる新時代へ。あなたは独りではなく、「今も、恵みによって選ばれた者が残っている」と(ロマ11:4~5)。

27日

列王記上19章19~21節
エリヤは……自分の外套を彼に投げかけた。エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。(19d~20節)

 ヤコブは年寄り子に「晴れ着」を与えて親の愛を示し(創37:3)、ファラオは指輪と「衣服」と共に、王に次ぐ職務をヨセフに与えました(創41:42)。ダビデはサウルの「装束」を拒みましたが(サム上17:38)、後に王子ヨナタンから「上着」と「装束を剣、弓、帯に至るまで与え」(同18:4)られ、王家との結び付きを得たのです。衣の譲渡はつまり、祝福や愛、職務や権能を与え継がせるしるしです。エリヤが投げた「外套」もそう。エリシャは、裕福だったのか、ただ仲間の動産管理を任されていたのか分かりませんが、十二(!)軛の牛のしんがりを守る日常のただ中で、突然「預言者の外套」に覆われたのです。イエスが漁師を召された場面を思います(マタ4:19)。召しはいつも、人の備えによらない天的なものであり、しばしば即時的・決断的な服従や(同4:22)、家族や仲間と一端区別される特別な献身を求めます(同8:22)。エリシャは、親元を離れ仕事を断念してでも従うほどの大いなる力に捕えられました。御心どおりです(16)。

28日

列王記上20章10~21節
「この大軍のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る」(13節)

 前九世紀のアラムイスラエルの緊張関係を映し出す20章では、「武具を帯びようとする者が、武具を解く者と同じように勝ち誇ることは出来ない」(11)という諺が印象的です。ソロモン時代にアラムが独立すると(11:23~25)、統一王朝は不安定になり、ついに南北に分裂しました。その後アラムは南北関係をかき乱し(15章)、今や三十二人の王侯と共にサマリアに戦争を仕掛けてきたのです。対するアハブは、戦闘準備に万端でも、勝利の確信は「取らぬ狸の皮算用だ」と、諺で応じます。苦し紛れにも響きますが、これが本当になりました。アラム軍が酒を飲み油断したとはいえ、この驚くべき勝利は主の業でした。預言者が現れて初めて事が動き、兵力動因に成功、民七千人も総出で戦う力が湧いたのです。アハブ王はなお神の怒りを免れてはいません。しかし、預言者はエリヤひとりではなく、民に残された七千人もおり、まるでギデオン軍(士7)のように少数で大軍に勝利したのです。主の御言(19:18)の確かさを覚えます。

29日

列王記上21章1~16節
   ナボドはアハブに、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」(3節)

 アハブは罪に罪を重ねます。今度は神々のためでさえなく、権力と豊かさの象徴である自分の菜園を作るために、イズレエルの人ナボドのぶどう畑を奪おうとするのです。国家権力と個人の所有権がぶつかります。いや、ナボドにとっては個人の問題などではなく、王の支配か神の支配か、という問題です。ナボドは畑を「先祖から伝わる嗣業の土地」、神に分配されたものと考えるのです。これを譲ることは、神のものを王のものにする罪です(レビ25:23)。一方「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気をしてください」(7)と王を励ます蛇のように聡い王妃も、これが支配に関わる問題だと知っています。「起きて食べよ」との言葉は、主のエリヤに対する恵みの言葉と同じ(19:5)。語り手が違えば、良い言葉も略奪に奉仕し、支配者が変われば、嗣業も分け与えるものから奪うものになるのです。いや土地だけではない、アハブは命をも奪います。どちらの支配者の下で生きるのが幸いか、誰の目にも明らかです。

30日

列王記上21章17~29節
アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いをくださない。(29節)

 「アハブのように、主の目に悪とされることを身にゆだねた者はいなかった」(25)。彼は、「貪欲に畑を奪い……人々から嗣業を強奪する」(ミカ2:2)律法違反の筆頭者、まさに「罪人の(かしら)(最たる者)」(一テモ1:16)でした。主は、その手によって流される「ナボトの血とその子らの血を確かに見」(王下9:26)、その報いとして、悪に身を委ねた者の血をお求めになります。聖書の「血の報い」は、行いと結果の間の自動的で機械的な因果応報とは違います。それはもっと人格的で、燃え立つ熱情の力に湧きあがるものです。激しい断罪の言葉は、主が人間にこだわり、徹底的に関わる方だと示します。この言葉に触れた者は、心砕かれ、打ちひしがれて罪を悔い改める他ありません。するとどうでしょう。神は「罪の王者」をも憐れまれるのです。結果アハブへの災いは後世へ延長されました。ついに十字架上で御子の血が流されるとき、すなわち神の義と愛とが口づけし(詩85)、徹頭徹尾人格的な罪の贖いと和解が実現するときまで。

31日

列王記上22章18~28節
「主の言葉をよく聞きなさい。わたしは主が御座に座し、天の万軍がその左右に立っているのを見ました。主が、『アハブを唆し、ラモト・ギレアドに攻め上らせて倒れさせるのは誰か』と言われると、……ある霊が進み出て主の御前に立ち、『わたしが彼を唆します』と申し出ました。(19~21節)

 ああ、21章で本書が終わればどれほど良かったか! 「悔改めた罪人」としてのアハブ像は撤回されてしまいます。「イスラエルの王」の名がなかなか出ないので信じがたかったのですが、「(そそのか)す霊」の支配下で、四百人の偽預言者に従って、ついに血の報いを受けて死ぬのはやはりアハブです。南北王朝の関係も、戦時の益で一時結ばれますが、あとは相手を犠牲にする憐れな姿を晒したまま、時代が繰り越されます。それにしても、「主からくる悪霊」(サム上16:14他)とは何でしょう。ファラオを頑なにし、サウルを狂わせ、ヨブを打つ霊やサタンが神から来るなら、悔改めたアハブが再び惑う責任は神にあるのか。誘惑の蛇を造られたのは神ではないか。そう思うわたしたちに「主の言葉をよく聞きなさい」との声が響きます。むしろ悪が主に肩を並べず、支配下にあること、誘惑の時代にその一点を知ることこそ大事なのです。悪霊に唆されない少数者は、主の御言のみを聞きます。災いの新時代に教会も、主に聞く姿勢を問われます。

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