以下、スイス・チューリヒのフラウミュンスター教会(N.ペーター牧師)の説教を一部ご紹介させてください。民数記22、24章より、ロバがしゃべりだすという、バラム物語についての説教です。
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愛する教会共同体のみなさん、
「敵をのろうために招いたのに、あなたはかえって三度までも彼らを祝福した。」―ひどくがっかりした王バラクは、溢れる怒りにまかせて、この言葉を先見者バラムに頭ごなしに投げつけました。というのも、わざわざ専門家を呼びにやり、その仕事の報酬として、前もって大変な金額を約束していたのに、それが果たされなかったからです。王は、「称美(Famierung)」(Fame=名声を与えること!) ないし「誹謗(Diffamierung)」(Fameを奪うこと)の専門家を呼び寄せていたはずでした。良い言葉で高みに持ちあげること、すなわち祝福することに長けている者。また一方で、ここで求められているようにこき下ろすこと、すなわち他の人々を呪うことに長けている者を。バラクは、言葉が祝福をも破壊をももたらす力を持っているという、私たちも承知していることを、よく分かった人物だったのです。彼は、エジプトからの亡命者として新しく姿を現したイスラエル民族を前に、不安を掻き立てられて言いました、「彼らは我々をめぐるすべてを喰らい尽くそうとしている」。そこで、民数記の続く章では、王バラクが投入する秘密兵器について語られます。かの先見者バラムです。…なんという物語でしょう!
イスラエル・ゲリジム山で出会ったロバ。 |
Ⅰ.
さて、そもそもの発端はこうでした:自由を求め、約束された土地に憧れ、荒野を彷徨うエジプトからの亡命者たち。彼らが今や、エリコ近郊・ヨルダンの向こう岸であるモアブのステップ地帯にまできて宿営していたのです。モアブ人の王バラクは、不安に青ざめました。いわく、「彼らはまるで牛のように我々の牧場の草を食んでいる」のです―誰かを誹謗中傷しようとするときに、動物が喩えとして引き合いにだされることは、今日でも未だによくなされます。まさに同じことをするために、彼は、言葉の卓越者、バラムを呼び寄せたのです。
なかば選挙戦に動員されるコミュニケーションの専門家たちのようだ、と思い起こされるでしょうか。巧みな言葉や悪い風評―すなわち、呪いの現代版―をもって、相手に大打撃を与えるのが、彼らの仕事です。じつに、合衆国の大統領選挙の前哨戦と本選挙にならば、私たちにとっての視覚教材が多くありそうです。そこでは、相手を締め出すために、不当な手段も含めて、あらゆる手段が動員されるのです。
はたして、異邦人の預言者、その道のプロであるバラムは、依頼を受けました。大きな報酬が待っているのですから、身をのり出す思いだったでしょう。が、しかし、まずはその良心に、そして神の声に聞く必要があります。結果、彼は聞いたのです、はっきりと、「行くな、この人たちを呪ってはいけない。彼らは、神の祝福のもとにあるのだ」と。バラムは、これをバラクに伝えるために使いを帰らせましたが、王は頑として承知せず、改めてさらに位の高い使者を遣わし、しかもさらなる報酬を与えることを申し出ました。今や応じたバラムは、いま一度神の声に耳を傾けるために出掛けます―どきっとしませんか―、すなわち、今彼に起こっていることは、私たちにもしばしば思い当たるようなことです。つまり、はじめは、良心が否といいます。しかし、事柄がより重大になり、いよいよ魅力的になってくる!となると、次に良心の吟味の段になったとき、違う答えが聞こえてくる。なるほど人は、じっくり十分に時間をかけてただ耳を傾けなければならないもの。そして、納得する根拠が見つかって、説得的だと思えるに至ったあかつきには、ついに考え方を改め、前に進むことだってあるでしょう。まさに、そのようにバラムはしたのです。今や彼は、ロバに跨り出掛けます―良心にさえ、うながされて―、バラクのいる方へ。
ところが、ロバときたら、ある道の狭まった場所、岩壁の細道に至ると動かなくなって、かたくなに立ち留まったまま、ぴくりともしません。実にそれは、預言者だと自認していたバラムには見えなかったものを、このロバが見ていたからです。つまり、ひとりの天使、抜身のつるぎを手にした神の御使いを!御使いは、バラムとロバがここを通りぬけることを許そうとはしませんでした。不機嫌になったバラムは手綱を引いてこれを駆り立て[antreiben]、どうにかしてロバに、天使とつるぎの脇を通過させようとします。対するロバは、バラムの片足を、おそらくは痛みを伴うほどに、岩壁に押し付けました。たまらずバラムは、岩壁に寄るロバを、我を忘れて打ち続けるのでした。そのときです、聖書本文の通りに申し上げますが、神がこのロバに口を開かせられたのです:「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは」。対するバラムが、「お前がわたしを侮ったからだ。わたしの手につるぎがあれば、いま、お前を殺してしまうのだが」と答えると、なお、ロバはバラムに言います:「わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにした[ドイツ語では、treiben駆り立てた]でしょうか」。ここに至ってようやく、バラムの目が開けます。つまり、ここに至ってようやく、御使いを見るのです。今や彼の二重の不当さに、両の目が開かれます。すなわち、彼は、動物に対する仕打ちにおいて不当であり、また、その「呪いのミッション」に関して、誤ちを犯していたのです。
そこで、彼は悔い、自分のロバのことでわびると、御使いの前にひれ伏しました。そこで、彼が受けたのは、しかしながら、引き返せという指示ではありません。そうではなく、バラクのところに行けというのです。ただ、今度は、命じられたことのみを語るように、それだけが許されました。
さて、印象深いことは、王バラクがいかに盛大な宗教的呪術行為を行っているか、ということです。王は、高台に七つもの新しい祭壇と、犠牲の雄牛らを準備します。しかし、とりもなおさず印象深いことは、バラムが、神の民にとって決定的な局面で、それぞれの亡命者たちを呪うのでなく、むしろ、祝福していることです。バラクが再び同じ宗教劇の舞台と犠牲とを準備して、もう一度また別の高台に彼を連れて行きますが、そこでもバラムは、この民へのさらなる祝福を語りました。三度目も、やはり同じでした。
Ⅱ.
わたしたちが、ここで、三度呪われる代わりに三度祝福されたという素晴らしいモチーフに目を留めるばかりでなく、まるで、効果的に作用する言葉を使うことを本職とした専門家であるスピン・ドクター―イングランドで情報伝達のプロがそう呼ばれます―のように、的確に世論に働きかけてそれをスピン[空転・回転・混乱]させ、“正しく”(もちろん報酬を支払う政党の立場に立った正しさで)方向づけることのできる、そんな大物が、自分の所有するかくも小さな一頭のロバによってその目を開かれたということにも注意するとすれば・・・愛する教会共同体のみなさん、これは、なんという物語でしょうか!
これは、さらに一歩踏み込めば、わたしたち自身のこととして悟るべきものをおそらく含んだ物語なのではないでしょうか。まず誘惑に、それから良心の逡巡によって試みを受け、しかも姿をあらわす数々の抵抗に当惑させられる。はたして自己の立場に固執する願望を抱き、ついには、人を打つような議論を、権力を、もはや打ち棄てるわけにもいかなる。
そう、小さなロバが語りかけたとき―長く関係を保ち、ずっと変わらず彼に仕えてきたものとして語りかけたとき―、バラムにおいては、まず全てが狂い始めます。「わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか」?「いや…」と彼は、[自分の非を]認めざるをえません。ようやくここに至り、バラムの知覚が研ぎ澄まされます。ようやく今になって開かれたその目は、天使とつるぎを、すなわち自らの危険を見留めるに至るのです。
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つづきは、教会ホームページで!日本語でお読みいただけます。
http://www.fraumuenster.ch/index.php?option=com_phocadownload&view=category&id=66:ubersetzte-predigten&Itemid=58
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