2013年4月23日

「権力と奉仕」フラウミュンスター教会礼拝説教(日本語訳)

Giotto di Bondone (1267-1337),
服を父に返すアッシシのフランシスコ
(Wikipediaより)
久しぶりに、更新いたしました。
3月17日の説教原稿の邦訳です。

「力」を主題とした説教の第四回目、
説教題は「権力と奉仕」

ちょうどローマでは
コンクラーヴェがおわり、
スイスの改革教会も、
南アメリカからの新教皇誕生の
ニュースの驚きの中にありました。

その話題を皮切りに、
フランチェスコ/フランシスコ
という名が負う歴史に思索を得た説教は
「教会の権力」の問題に深く切り込みます。

とりわけ、教会の自己批判の可能性を示唆しつつ
  まとめとして挙げられた最後の四点から
                わたしたち自身の教会のあり方も考えさせられます。

 以下引用です。
全訳は教会公式ホームページを御覧ください。

なんという印象深い歴史〔物語〕でしょうか、イエスの時代のイスラエルという国におけるこの秘密のミニ・コンクラーヴェのお話〔マルコ10:35以下〕は。そして、対するイエスの応答はなんと印象深く、教えに富んでいることでしょうか。
以下、最後に、四点に要約してみたいと思います。 
1.力は、それ自体よこしまでも悪くもなく、人間性に従属するものである。なぜなら、具体化を願い、生命を望み、共同体を形成することは、つねに、力を伴って進行するものだからで ある。そしてそれは、教会においてもそうである。  
2.力は、しかし、仕えることとして、すなわち、共通の責務にあたって―共に生きる生活、仕事、文化の確かな保証という目的にあたって―の奉仕として、理解されるべきである。力は、決して力それ自体のために求められるものではなく、常に、共同の目的に関連したものである。そして、このことは、実にとりわけ、教会共同体―イエス・キリストの御名において集まる共同体―に当てはまる。イエスは権威に勝利し、それに伴う権力に打ち克たれた。なぜなら、この方は、和解と愛を生きられたからである。なぜなら、この方には、そのために責任を負う用意、ご自身のその命をもって責任を担う用意があったからである。  
3.力が、キリスト教会にとって、つねに、仕えることをもって果たされるのであれば、そのことは、組織構造上にも示されなければならない―どのように決定がなされるのか、たとば誰が、どのやり方で、指導的責任を請け負うのか、力ある者たちが仕えることをやめたときに、それらの者たちを解任することはできるのか―。聖なるものは、秘術の内、神秘的に覆われたものの内に現れるものではなく、和解させられた生の内に、まことに神の責務を負うため、この意味で仕える用意のあるところに現れるものである。   
最後に4.わたしたちは、カトリック教会ではなく、わたしたち自身の教会を改革しなければならない。しかも、福音の力、その良き力についての理解が、再び輝きだすようなあり方で。神の御力がわたしたちの生を力強くする。この御力を、人は手中にすることはできず、人はただ、御力の仕え人としてのみあることができる。

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