2013年6月22日

J・S・バッハ「心も口も業も命も」(BWV 147)訳と大意

今度歌うので、翻訳してみました。
その際にインターネット上で調べたことを
まとめ、印象を「ノート」として書きとめています。


「心も口も業も命も」
BWV 147 Herz und Mund und Tat und Leben


原詞:S.フランク/ 6,10のみM・ヤーン
邦訳:schu-hey


第1部

1. 合唱
心も口も業(わざ)も命(いのち)も
キリストにつき証なすべし
恐怖(おそれ)、偽善(いつわり)なく
そは神、救い主なれと。

2. レチタティーヴォ (テノール)
祝福されし御母(みはは)の口よ!
マリアはおのが魂の底に
感謝と讃えをもて告げ知らせ、
おのが内に語らい始める
救い主の奇(くす)しき御業(みわざ)を、
その卑女(はしため)たる処女(おとめ)に
 主が何を果たしたもうたかを。
おお 人の類(たぐい)、サタンと罪のしもべよ、
慰めをもたらすキリストの顕現により
この重荷と従属から
君は 解き放たれたり!
されど なが口 なが頑(かたくな)の趣は
黙して否(いな)むや、かかる穏便を。
いざ知れ、君に 御書(みふみ)によらば
大いなる 審(さば)きぞ 臨まんことを。

3. アリア (アルト)
ああ魂(たま)よ、君恥じることなかれ、
なが救い主を告白することを。
主は なれを ご自分の者と 証したもう
御父(みちち)の 御前(みまえ)にて!
されど この地にありて 主を
否みて恥じることなき者は
主によりてぞ 否まれん
主 御栄(みさかえ)に 入りたもうとき。

4. レチタティーヴォ (バス)
頑なが権力者らを幻惑せしむることあらん、
いと高き方の腕(かいな)によりて、その座を追われるまで。
否、その御腕(みうで)、高みに上がり、
御前(みまえ)に地の 震(ふる)うとも
しかるに悲惨に悩む者らを
かくも主は救い出(い)だしたもう。
おお いとも幸なる キリスト者らよ、
起きよ、備えよ
今こそ恵みのとき、
今日こそ救いの日、と救い主が言われる
なが身と霊(たま)は
信仰の賜物に飾られたり。
起きよ、主に呼ばわれ、熱烈な求めをもって。
そは主を信仰において、受け入れんがため。

5. アリア (ソプラノ)
備えたまえ イエスよ、今なお軌道を。
わが救い主よ、選び出したまえ
信じまつる魂を。
恵み深き目もて、我を見つめたまえ!

6. コラール
幸いなるかな、われにイエスあり
おお かくも確かにわれは主をとどめ、
主はわが心を力づける。
我病み、悲しめるとき
イエスぞ、われにあり―我を愛し、
われにご自身を与えたもう方。
ああ、ゆえにわれイエスを放すまじ
たとえわが心崩れ折れんと

第2部

7. アリア (テノール)
助けたまえ、イエスよ、われも君を証さんがため。
幸なるときも 悩めるときも、喜びのときも 悲しみのときも
助けたまえ、なれを わが救い主と呼ばわらんがため。
信仰にありて、平安にありて
わが心たえず、なが愛に燃えんがため。

8. レチタティーヴォ(アルト)
いと高き全能者の驚くべき御手(みて)は
世の隠されたところにありて御業(みわざ)なす.
ヨハネぞ御霊(みたま)に満たされて
彼を愛の契(ちぎ)りが寄せる
既に母の胎にありしより
彼は救い主を知り
その口で主を
呼ばわらぬままに
彼は動き、飛びはね、踊りたり
そのうちにエリザベトは奇跡を告げ
そのうちにマリアの口は唇の献げものをささげまつりぬ
なんじ、おお信仰者らよ、肉の弱さを認めるときに
なんじらの心 愛に 燃えながら
その口 救い主を 証せざるときに
御神(みかみ)はなんじを溢れる力で強めたもう
御神はみ霊の力を呼び起こし、
然り、感謝と讃美を なが舌に置きたもう。

9. アリア (バス)
われイエスの奇(くす)しき御業(みわざ)を 歌い
主に唇の献げものをささげん。
主は主の愛の契約に基づき 
弱きこの肉と 世にある口を
聖(きよ)き 火もて 強めたまわん。

10. コラール
イエスぞ保ちたもう わが喜びを
わが心の慰め、潤いを。
イエスぞ退けたもう あらゆる悩みを。
主はわが生命(いのち)の力
わが目の望みにして太陽
わが魂の宝にして歓喜
ゆえにわれイエスから
この心と顔を放さじ。

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ノート:

歴史

 1723年夏にライプツィヒで初演されたこのBWV147には、BWV147a というカンタータを巡る前
史がある。それは、領主との不和で終結したことで有名なヴァイマール時代の終わり、1716年のこ
とだった。待降節(アドヴェント)第四主日用にカンタータを準備していたバッハは、突然その仕事
を放棄してしまう。当時の宮廷楽長ドレーゼが同年12月に死去したことで、後継者問題が生じた
ためだ。楽師長として宮廷副楽長に勝る仕事をしていたバッハは、実力に関わらず楽師に任命さ
れえないことを知ったとき、傷心のうちにヴァイマールを去ることを決断したのであった。その後安
息のケーテン時代にもこの曲に手を着ける機会は訪れず、この曲がついに日の目を見るのは、
バッハがライプツィヒのカントールとして就任した翌年であった。ただ、BWV147は、先立つ作品に
かなり大きな改訂を加えたものになったようで、しかも初演は待降節にではなく、夏、7月2日の
「マリアのエリザベト訪問」の祝日に行われた。

主題

 待降節用の詩とカンタータを、なぜ、夏の祝日に用いることができたのか。それは、伝統的な教
会における、このカンタータの土台となる主題聖句=新約聖書ルカによる福音書1章39節から59
節の取り扱いの多様性に由来する。ここに伝えられているのは、「訪問」と呼ばれる場面である。す
なわち、後に救い主と呼ばれる赤子を処女にしてみごもった妊婦マリアが、後に洗礼者ヨハネと呼
ばれる赤子を高齢にしてみごもった妊婦エリザベトを訪ねるいきさつが記されている。処女妊娠、
高齢妊娠は、命の出産に関わる神の力の強調としては、極まったものである(特に後者は、旧約
聖書時代より、神の命をもたらす力を強調する伝承パターン。族長アブラハムの妻でイサクの母サ
ラの高齢出産、預言者サムエルの母ハンナの出産などに既に例がみられる)。後に洗礼者として
イエスに再会し、人々に救い主の到来を告げるヨハネは、母エリザベトの胎にいるうちから既にお
腹の中でよろこび踊ったと聖書は伝える。そこで、エリザベトは、この赤子の「動き、飛びはね、踊
る」様子から、マリアの生もうとしている子が神に祝福された存在であることを知り、神と赤子を「讃
美」する。それに応じて、若きマリアも賛歌を歌う。有名な「マ(グ)ニフィカート」である。
 この箇所が、待降節に朗読され歌われるにふさわしい理由は明らかである。というのも、新約聖
書ルカによる福音書の文脈自体が、これを、クリスマスの出来事、すなわち、2章の「イエスの誕
生」の記事に直接先立つ場面として、この記事を位置づけているからである。エリザベトのマリアへ
の祝福の言葉は、生まれる前からマリアに生まれる子を讃美する内容であり、そこにはいわば、クリスマスの前味を味わう世界で最初の女性の声がある。マリアの賛歌は、さらに旧約聖書まで視野
において、イスラエルに救いを約束し、人々の救いを準備してこられた神が、ついにその成就を果
たそうとなさっていることを讃える。したがって、マリアの口は、旧約聖書の引用で満たされている。
その約束の成就としての救いの喜びこそ、クリスマスで世々の教会が覚えてきた中心主題だった
のである。
 一方、西方教会の暦の上で、この箇所が7月にこそ朗読されるにふさわしいとされたのは、出産
にいたる妊娠期間が考慮されたからであろう。聖書では直接誕生の記事が続くとしても、妊娠後す
ぐにマリアが出産したわけではなく、そこには通常の妊娠期間が考慮されるべきだと考えられたの
である。したがって、12月25日をイエスの誕生日、クリスマスだとするならば、この視点からは、
数ヶ月前に「訪問」の祝日を置くのがふさわしい(とはいえ、バッハの時代には7月2日とされたこの
祝日は、今の教会では5月31日とされているようであるが)。
 ここに、ルカによる福音書1章39節以下を引用しておく。

  そのころ、マリアは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町へ行き、ザカリアの家に入ってエリサベツに挨拶した。エリサベツがマリアの挨拶を聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上が私のところに来てくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。するとマリアは言った、「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち世々の人々は、私をさいわいな女というでしょう、力ある方がわたしに大きなことをしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、世々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶるものを追い散らし、権力ある者を王座より引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕(しもべ)イスラエルを助けてくださいました。私たちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。マリアは、エリサベツのところに三ヶ月ほど滞在してから、家に帰った。

BWV 147の詩の大意、個人的な印象

 *一部、≪善悪≫の対比の色濃い、かつての教会の言葉遣いで満ちていて、少し現代人
には厳しく聞こえる詩かもしれない。現在の教会は、むしろ、このようなイメージの言語を避ける傾向もある。それは、ときに善悪の二元論に陥って、自分たちだけを聖とし教会の外を断罪してしまった教会の歴史的な過ちを繰り返さないようにという反省があるからであろうか。その点に注意しつつ、このテクストと旋律が第一のものとする「救い」の強調、深い「願い」と「喜び」の基本線を受け止めるようにしたい。

 1.
   聖書から直接引用された言葉ではなく、教会的な信仰告白と証のよびかけが冒頭におかれ
   る。第一行は、構成上、≪口(言葉)―業(行い)≫を、≪心―命(+魂)=全人格≫が囲んで
   枠付けている。キリストは神(の子)であり、救い主であるという信仰告白は、口はもちろん、信
   仰者の行いをもっても、心を尽くし、命を尽くす(旧約聖書申命記6章)全人格的な在り様で、
   人々に明らかにされなければならない。
 2.
   マニフィカートを歌い始めるマリアに働く神の力への讃美と、サタンの断罪の対比がある。「人
   の類」の罪がサタンの「奴隷」たるものとして暴かれる。人が、良くない主人に仕えるとき、そこ
   にあるのは重労働と足かせである。しかし、神がマリアから生まれさせる救い主によって、神
   は本来の自由な子の身分に人々を救い出そうとしている。いや、教会の視点でいえば、その
      救いはすでに成就したと告白されている。教会はその救いを聖書に学び、その言葉に信を置
   いているが、もし記されている救いに聞く耳を持たない頑なさになおとどまっているとすれば、
   それは不幸であり、罪の奴隷としての「裁き」の現実が解決することはない。古い教会の厳し
   い言葉遣いだが、いずれにせよこれは、だれかを断罪する言葉であるよりは、解放へと招く意
   図で語られている言葉であろう。奴隷の状態からの解放、頑なさからの自由という主題は、旧
   約聖書出エジプト記のモーセの物語以来の古い主題である。
 3.
   1で語られた証の必要性が、より個人的な魂への呼びかけの言葉として表現されている。加
   えて、ここにはやはり現在の教会では強調されなくなってきた「罪の裁きの場面」のイメージが
   現れる。主イエスは、神の前で信仰者を自分のものだと主張する。サタンの奴隷ではなく、神
   の子のものだという証言を、裁きの座で神の子自身が引き受けてくださるという教会の信仰が
   ここにある。このイエスといういわば良き「弁護士」に弁護されたものには、「栄光」が待ってい
   る。その弁護を拒否することは、2.の奴隷状態に留まることを、自ら神の前に証言しているよ
   うなものである。
 4.5.
   前半は、ルカによる福音書のマニフィカートの言葉である。マリアは、弱きものが強められ、低
   きものが高められることに驚き、そこに神の力を認める。その際、もちいられている言葉遣い
   は、旧約聖書の時代以来、たとえば「ハンナの祈り」(サムエル記上2章)のような例がある、
   古い神讃美の伝承パターンに基づいたものである。マニフィカート以外にも、イザヤ書11章
   や、「今こそ救いの日、喜びの日」の詩篇など旧約聖書の引用がここにはある。バッハの時代
   はもちろんのこと、教会は、弱者に視点を向け、高ぶりをくじく神に希望を表明した古来の祈り
   をイエスによる救いとの関係で祈っている。イエスは救いにいたる道である、そのことを受け入
   れるための熱烈な信仰が強調される。
 6.
   救いと裁きの間に立って、緊張をもっていた詩人が、ここでは、キリストを「もって」いることに
   憩いを見出している。ここでは、自分の弱さが問題なのではなく、弱さの中でイエスが共にいて
   くださることの力強さへの信頼が讃美の歌となっている。また、イエスが「われ」に与えたもうも
   のは、「愛」である。すなわち、みずからの命をささげても救おうとする自己犠牲の完全な愛で
   ある。
 7.
   愛するための助けを繰り返し求める声から第二部ははじまる。結婚式の誓約で語られる富め
   るときも、やめるときも、という表現を思い起こさせる詩文から、イエスを生涯愛する対象とし
   たいという詩人の求めが表現されている。この人がつねに求めているのは、冷めた感情では
   なく熱烈に燃える愛である。
 8.
   ルカによる福音書1章39節以下の「訪問」の場面が描写される。後に洗礼者となる赤子が、
   母の胎にあるうちよりマリアの子を救い主と知り、喜び踊る。そこからエリザベトの祝福と讃美
   の言葉、マリアの賛歌が生まれるのである。そのような愛の結びつきが契りという言葉で表現
   され、これを歌い聞くものたちに、同じ結びつきのうちにあって歌うことを促している。
 
 9.
   そこで生じるのが信仰者自身の口による賛歌である。契約という言葉は8の契りという言葉を
   受けているが、マニフィカート内にも用いられている旧約聖書来の神と人との約束の関係のこ
   とである。聖なる火のイメージは、これもやはり、預言者イザヤの書の6章などの例に見られ
   るように、古来罪の赦しとの関連で用いられてきた象徴言語である。
 10.
   第一部の終わり同様、第二部も、個人的なキリストとの結びつきの中で憩い歌う信仰者の信
   頼に満ちすべてを明け渡した言葉で閉じられる。こうして心と顔を救いへと人格的に向けたま
   ま、信仰者の人生は歩みとおされてゆく。
   
最後に 「主よ人の望みの喜びよ」について
 6.と10.に用いられているバッハの美しいメロディで親しまれるこの曲、歌詞はマルティン・ヤー
ン作、<Jesu Meiner Seelen Wonne イエス、わが魂の喜び>の第6、16節。しかし、この有名な
邦題は、ピアニスト、マイラ・ヘス の訳になる英語題≪Jesu, joy of man's desiring≫ の直訳であり、ヤーンの題名とは異なる理由はそこにある。

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