幼稚園の友達みんなの家の
途中、その中のひとりのお母さんに
思いがけずご家庭のパーティーの輪に。
ルーツをク
クロアチアの魚介料理や
きゃべつ巻き
そしてポピーシードのパ
クロアチアでは80パーセント以
こちらの家族もクリス
近所迷惑もいとわない子供
大人も喜んで歌声を合わせ
素直な歌声に心寄せる時間は幸せでした。
最後に、クロアチ
短く言うならBog
ずばり「神」という意味だそうです(Zubogum「
「ボクは神」
おぼえやすい(笑)!
神なしに、かつ共なる人なしに自己を見出そうと欲するもの、その人は、おそらく、ただ疑わしいばかりの三位一体に直面することになるでしょう。ちょうど、アメリカの曲名「My, Myself and I(わたしの、わたし自ら、そしてわたし)」―ドイツ語に翻訳しようとすると、「Ich, Ich und nochmals Ich(わたし、わたし、おまけにわたし)」となるでしょうか―に似た響きが心に浮かびます。こういった疑わしき「わたし」の三位一体を、わたしたちは自分たちの文化のうちに持っていますし、特に最近でもあの銀行のスキャンダル以降、まったく多すぎる…と感じるほどです。さて、今や、それを押しとどめるのが、この大きな、そして挑発的ですらあるイエスの言葉です。「だれでもわたしの弟子となりたいと思うなら、自分を捨てなければならない」―つまり、これは、この支配的な「私・わたし・ワタシ」に距離を置くことができる、ということです―。彼は、自己中心化を押し破ってひとつ歩を進めることができるに違いありません。そうして、「自分の十字架を負う」のです。ここで、ソクラテスの演説に近づきます。「自らのことのみを考えるもの、これは自己を損なうもの」―まさにそう、ソクラテスは、死への準備の只中になってなお、その裁き手たちの自己について考えていたのでした―、というのも、ここに立ちはだかっているのはただ自己 〔エゴ Ego〕中心的な自己 〔Selbst〕 ばかりではなく、「人間」それ自体であり、しかも、その人間とともに危険にさらされているのは、他ならぬ「真実」だからです。